城跡は京都府福知山市夜久野町大油子にあって、「山城賛歌」で数年前登城リポートを終えた段城からみれば、農作地を隔てて直ぐ真東側の山上尾根に位置している。城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには、大油子城砦群の中の一つでもある、段城を既に訪れた事がある方なら所在位置の確認は直ぐ出来るが、国道9号線を経由した後は56号線に進入する事になる。付近まで辿り着けば登城ルート図を参考にして頂ければよいが、取り付き口付近は相当な激斜面となっている。もちろん上り易い地点を探せばよいのだが、自身がチョイスした直登ルートは、見通しの利く植林地にある為方向が定め易く、足には相当堪えたが、上り易かった事だけはお伝えしておきたい。ちなみに川沿いに車を停めて15分程度の所要時間

     登城ルート1登城ルート 城跡概念図3概念図

城跡の形態は、縄張りが尾根最高所に限られると眼に映った事から、ほぼ概念図通りと思って頂いても差し支えないと思われるが、郭全長20m前後の単郭構造の山城である。その縄張りの中で判別確認出来た遺構は、全て概念図中に示したつもりでいるが、急斜面上に刻まれた明瞭な縦には目を奪われてしまった。中でも堀切から繋がる縦堀の屈曲しながら斜面を落ち込んで行く様は見応えも抜群!もちろん単独で刻まれた縦堀も直ぐそれと分かるもので、土塁や切岸と並んで、間違いなく見学者の期待に応えてくれるものとみた。とにかく砦規模の狭い城域に遺構は凝縮されており、規模さえ問わなければ間違いなくお薦め出来る山城の一つ!

西堀切10西堀切  北縦堀15北縦堀 主郭内18主郭

土塁20 土塁 虎口か21主郭虎口 東堀切23堀切壁約4m

南切岸28主郭南切岸 縦堀25縦堀 南縦堀27南縦堀

現状(四月訪問)城跡は、主郭内に低草木は多く蔓延るが、植林地にある事が幸いしたせいもあり、それなりに見通しは利き、遺構の判別確認も容易く、滅多に見学者の訪れない認知度の低い山城とすれば、抜群ともいえるコンディションの下にあると思って頂いてもよいだろう。城跡の評価は先に述べた通りという事になるが、山城ファンの方に限れば、是非期待して臨んで頂きたい。
スポンサーサイト
今回はヤマトタケル最終章としての二回目という形になったが、ヤマトタケルが能煩野に埋葬された後、白鳥が二番目に留まった地がどこであったのか、それと同時にその陵墓が実際にはどこにあったのか?ここから推測も含めた自論を語らせて頂きたい。
山口県熊毛郡平生町には、瀬戸内西地区だけに限らず、県下最大規模を誇る「白鳥古墳」が残っている。これだけで充分ヤマトタケルに関連した土地という事は解るが、この平生町は「ヒラオ」と呼ばれており、正しく白鳥(=シラオ=ヒラオ)と同じ発音、しかも伊保木(イオキ)の地名や、小碓(オウス)をオダイと発音した神田(コオダ~コオデイ~オダイ)の地名まで残されている、当然小碓はヤマトタケルの別名で、伊保木は五百城(イオキ)の当て字、つまり斎王であるところの五百野皇女(イオヤ皇女=巌国皇女=イツキ之国姫)が語源、古墳の上に建つのは「はくとり稲荷神社」で、祭神は日本武命、ここでやっと祭神としてのヤマトタケルに出会えたが、これだけの材料が揃えば、ここが白鳥(シラオ=ハクトリ)が留まった二番目の地と言わざるを得ないだろう。

もちろんこの地がコトヒキハラと読まれた「琴弾原」なのであるが、まずこの地名がこの発音で正しいのか、これが当時における実際の発音であったのかどうか、それも含めて今から当て字変換による証拠をお見せしたい。琴弾原の「琴」はコンと読むが、コン(ンの当て字はないので=コ)はコとすれば高(=コ=コー)、弾はダンと読み、同じようにンの当て字は存在しないので、ダと読めば「田」に置き換える事が可能、それに「原」を足して通して読めば、以前紐解いた地名の高田原=コオダバルやタカデンゲン(=高天原=熊毛)が完成する、即ち琴弾原の当時の発音は、コオダゲン、あるいはコオダバルという事になり、琴弾原は高天原や熊毛、あるいは高田原と発音の共通する当て字だったという事になるのである。よって熊毛郡内に白鳥古墳があるのも当たり前で、更に古墳付近に神田(コオダ=オダイ=オウス)の地名があるのも当然という事になる。つまり高天原は熊毛郡として、鹿児島県(屋久島と種子島の熊毛郡)から熊本県や宮崎県を経て、更に瀬戸内海を越えた山口県熊毛郡までは、間違いなく移動していたのである。もちろんこの白鳥陵は五世紀頃に築造されたもので、数百年後における熊毛人の後身が築いたものという事にはなるが、、、

参考程度に知っておいて頂きたいが、同じ平生町にある「神花山古墳」は、五世紀前半頃の三代目熊毛王とされる女王の陵墓(前方後円墳)とされており、これだけで数代目卑弥呼の君臨した地である事も解るのである。
         神花山古墳神花山古墳   (1)   神花山古墳   (2)

もちろん復元された女王の顔と大きな石像だけで、古代ロマンにも充分浸れるのだが、同じ郡内にある田布施(タブセ=大百済=倭百済)町には、あの神護石で有名な岩木(イワキ=五百城)山=斎山=巌山や、熊毛初代王の眠る県内最古の古墳といわれる国森古墳、あるいは後井古墳、それに阿多田(アタタ)古墳まで残っている。つまり邪馬(ヤマ=サバ=スバ)の当て字である周防(スオウ)にある熊毛郡は、平生、田布施、大和町、あるいは周防大島と並んで、間違いなく屋久島や種子島、あるいは奄美大島に住んでいた人達が、数百年の年月を経て移動した証拠を示す地名、という事になるのである。よってヤマトタケルに三箇所の陵があるという、記紀の記載事実を信頼するのであれば、二箇所目の地は間違いなくここしかないし、白鳥(=シラ王)は正しくここまで飛んで行って留まった(=陵が造営された)のである。もちろん倭国の琴弾原と記述されているように、この地は間違いなく倭国で、高句麗の代名詞とも言える熊毛(=高天原)は、日国(シラ=新羅)や百済とも共存していた事が解るのである。

熊毛郡平生町熊毛郡平生町   白鳥古墳平生町白鳥古墳1 白鳥古墳案内板

結果的に白鳥=ヤマトタケルは平生町からは大阪河内を越えて更に遠い、三重県(伊勢)までは決して飛んで行ってはいないし、一番目の陵は埋葬地でもある能煩野(高千穂の野方野と断定)陵で、この二番目の地には記紀における情報通り亡骸はなく、出土品として石棺や銅鏡、あるいは埴輪、農耕具、武具、装身具といったものが記録に残されている。しかも白鳥が三番目に留まった河内の白鳥陵は、空(カラ)の陵(=記念碑)であるという事も仁徳記には記されており、この件に関しては、記紀は決して嘘は付いていなかったという事が理解出来るのである。
よって古代史ファンの方々も含めて、世間一般の方々にも当たり前の様に知られている白鳥陵は、決してヤマトタケルの埋葬された陵墓ではないし、後に続いた倭王がヤマトタケルの偉業を称えた上で造営した、空の陵である事をここで改めて認識して頂きたいのである。個人的には近い将来、あるいは自身が生存している間に、高千穂町の野方野で「大王クラスの墓が発見される!」といった情報を、是非耳にしたいと思うのだが、、、、
河内にはあの仁徳天皇稜も含めた、倭の五王時代に造営されたと推察される陵が今でも数多く残っているが、これらは当時の倭王の権力の偉大さを物語るものであり、その造営に携わった民の労働力を思えば、秦の始皇帝に勝るとも劣らない倭王の力を、改めて感じずにはいられないのである。

城跡は兵庫県丹波市青垣町稲土にあって、この地区にある案内板に描かれた「八幡宮」の北側に突き出した痩せ尾根先端に位置している。城史に関しての詳細は不明であるが、この地区が山垣城を本城とした足立氏の支配する地域と思えば、規模を考慮した上で、その出城と考えるのが妥当なところか、、、

城跡を訪れるには、国道427号線「小倉」の信号を目指して車を走らせればよいが、北近畿豊岡自動車道を利用するのであれば、「青垣」ICが最寄の乗降口となる。その信号から稲土集落を目指す事になるが、登城取り付き口とした八幡宮まで辿り着けば、概念図に示した登城ルートを参考にして頂きたい。ちなみに八幡宮周囲は厳重な獣避けフェンス(金網)によって入山不能(開閉箇所がない!)に近いが、図に示した駐車場北側にある農作地を通過した奥に、唯一ネット(ナイロン)を潜れる箇所があり、そこから尾根先を目指した事はお伝えしておきたい。もちろんここは付近で畑仕事をされていた方に聞いた取り付き口で、相当な激斜面を上る事にはなるが、主郭までは10分足らずで辿り着ける筈である。

登城ルート1登城ルート 地元散策マップ4散策マップ 城跡概念図3概念図

城跡の形態は、アバウトに描いた概念図を参考にして頂ければよいが、全長25m程度の主郭だけを縄張りとした単郭構造で、主郭背後には尾根を断つ堀切が施されたものである。土塁は堀切から立ち上がっているが、僅かにそれと判るもので、痕跡程度と思って頂いた方がよいかもしれない、切岸は側壁で充分判別確認出来るが、、、堀切は随分地表風化が激しく、深さも相当失われているように察せられたが、自ずと見応えまでは望めないものと思って頂きたい。はっきり言ってこの城跡は、これ以上もこれ以内もない山城といってよいものである。ただこれだけの残存遺構だけで、この山城の値打ちを決定する事は少し無理があるかもしれない、超マイナーな砦規模の山城で、しかもこの隠れ家的な佇まいが、自身の琴線に僅かに触れたのである。

主郭先端9主郭先端 主郭内11主郭 切岸12切岸

土塁痕13 土塁痕 堀切17背後より堀切 堀切背後16土塁壁と堀切

現状(四月訪問)城跡は、植林地にある事が幸いしたせいもあるが、比較的見学し易いコンディションの下にあると思って頂いても差し支えないだろう。ただし主郭内は蔓延る低草木のお陰で見通しは利かず、とても臨場感までは味わえない状況となっているが、、、最後にお手軽感を加味した上で城跡を評価するとすれば、丹波地区の山城巡りの一環として訪れるのであれば、充分楽しめる山城の一つといった事になろうか。砦規模の楚々とした山城が好みの山城ファンの方には、間違いなくお薦め出来る城跡。
城跡は兵庫県三田市藍本にあって、福知山線「藍本」駅から見て真北側の、国道176号線を隔てて周囲を田畑に囲まれた、小さな丘状地にある。城史に関しては藍岡山城(山城賛歌で既にリポート済み)の出城と伝わっており、応仁の乱の時代には既に成立していた模様。戦国期には攝津の覇者荒木村重によって、本城と共に落城の歴史が伝えられているが、その後の詳細は不明

城跡を訪れるには、国道176号線へ進入する事が先決となるが、「藍岡駅」周辺まで到達すれば登城ルート図を拝見して頂きたい。国道から東進した突き当たりのゴミ集荷所付近に、車は何とか停められるが、そこから遊歩道に任せて上れば直ぐにでも辿り着けよう。

       登城ルート1登城ルート 城跡の現状3城跡の現状

この砦跡は国道176号線を走り続けていれば、車窓からも直ぐ望める位置にあるが、山城巡りの移動中何時でも立ち寄れる事、あるいは残存遺構に期待が全く持てない事を理由に、個人的には長い間訪問を先延ばしにしていた城跡の一つでもある。今回は山城巡りの帰途に着いた途中で、木々の伐採されたその丘上に東屋らしき建物が見えた事から、好奇心からついでに覗いてみる事になったが、その丘上には正しく城を意識したログハウス風の休憩所が設営されていた。もちろん数年前まではお目にかかれなかったものであるが、それは小さな砦跡に相応しい建物で、屋根まで付いた展望所となっていたのである。もちろん張りぼての城ではあるが、ブリキに描かれた石垣が物語る様に、手造り感に溢れたもので、恐らく地元有志の方々の手によって設営されたのだろうが、妙に好感が持てたのである。安上がりのチープな模擬天主より別な意味で素晴らしい!もちろんここから眺める里山の景色も、都会人にとっては風情が感じられて素晴らしいのだが、当時の人々が同じ様にここから周りを見渡していたかと思うと、限りない山城ロマンに包み込まれるのである。自身この展望所において景色を眺めながら、しばらくの間今日訪問した山城の余韻に耽っていたのだが、このくつろげる空間は非常に値打ちが感じられた事をお伝えしておきたい。結果的に遺構見学は全く成立しない城跡の一つという事にはなったが、遠く外見から望めるその佇まいだけは素晴らしい!と自分の眼には映ったのである。

城跡遠望4城跡遠望 展望所10東屋 展望所景色14休憩所景色

休憩所13東屋休憩所 主郭11主郭 主郭南側12主郭南側

ちなみに全長約20m程度の山上郭には小さな祠と社殿も建立されているが、その敷地はフラットに造成整地されたもので、西側傾斜面には植樹もされており、当時の祖形は縄張りも含めて、全て見学者の想像に委ねられるものとなっている。最後に圧倒的お手軽感を含めた上で城跡を評価するとすれば、砦跡としての佇まいだけは三重丸という事になろうか、史跡ファンの方には散歩がてら是非お薦め!
今回はヤマトタケルの総集編として少し長い話になるので、三回に渡り語らせて頂くが、前回語り足りなかった部分の補足、あるいは死に至るまでの真相を追って行く事になる。
記紀や地方風土記に記録されたものの中では、ヤマトタケルの記録が他の天皇に比べて圧倒的に多い。これも謎の一つとして解き明かして行きたいが、今回は自身がその死の真相に一番近く感じたものを、話の材料として語らせて頂きたい。熊襲タケル=スサノオは前回述べたように、女性を使った卑怯な手段によってヤマトタケルに討たれた。それと同時にヤマトタケルは、蝦夷(=熊襲)を全員皆殺しにしたり、それも非常に残忍な行為で殺戮の限りを尽くしたといった事まで、記紀には事細かく描かれている。その残忍な行為が災いしたのかもしれないが、死ぬ間際は伊吹山の神(=五百城山の神=斎山の神=卑弥呼あるいはスサノオ)に祟られ、その毒気によって徐々に体が衰弱し、更に意識もうろうとなり彷徨った挙句死んだという事になっている。今まで天皇や皇子が病死したとはっきり記述された記録はないと思うが、結果的にこれが一番近い死の真相(病死)なのではないだろうか。景行天皇の行為(殺戮の歴史)を、そのまま記述したくても出来ない記紀編纂者の苦労が、ここによく現れているが、もちろん神の祟りなどある筈もなく、それは後世の後付、あるいはこじ付けとも感じられるのである。結果的には衰弱死した事になるのだろうが、個人的には毒を盛られて衰弱死した可能性があるものと推察した。どちらにしても討たれて死んだとは記されていないので、天寿を全うしない限り、病死として片付けても良いとは思われるが、、、

記紀において初見となる、景行紀で登場する蝦夷はエミシ(=毛人)、あるいはカイと呼ばれた部族の事になるが、カイを開(カイ=ヒラ)と当て字すればヒラとなり、後で登場する日国=肥国にまで結び付く。つまりヒラやシラであり、ここで蝦夷=毛人=戒(カイ=エビス)人=軽(ケイ)人=開人=日国(シラ、ヒラ)人の図式が成立する。これらはヤマトタケルが討伐に及んだ国を指し示したもので、その全てがスサノオを代表とする熊襲族という事になるが、敗者が蝦夷や土蜘蛛と、後世蔑まれて呼ばれた部族であった事も充分理解出来るのである。以前「猿かに合戦」における、敗れた主役の「猿」をスサノオと述べた事があったが、岩戸神社から少し離れた地に、大猿渡(オオサルワタリ)と書いて「オオソタリ」と読む地域がある。更に高千穂神社北方にも「猿渡」の地名が残っているが、この「猿」を「ソ=狙」と呼んだ発音こそ、タリを足と書いて王(タリシ)とした高狙王(コオソタリ=オオソタリ)で、これを高(狛=コマ=クマ)をクマと読んだ別の当て字で置き換えれば、熊襲王(クマソオー=オオソタリ)という事にもなるのである。これでスサノオが狡賢さの代名詞とも言える、猿(ソ=狙=襲)と呼ばれた理由も納得出来るし、猿王(ソオー=エンオー)がスサノオの代名詞であったと同時に、この地が紛れもなく熊襲地域であった事も解るのである。ちなみに獣偏で書かれた狙(ソ)は、獲物を狙うといった意味から、同義語として猿=狙(ソ)になったものと考えられるが、、、

ヤマトタケルが死んだ後は、伊勢の「能煩野陵」に埋葬されたのだが、高千穂の隣町である五ヶ瀬町や、地元を流れる五ヶ瀬川の五ヶ瀬は、伊勢(=伊世)の当て字とも窺われるもので、五ヶ瀬の助詞であるヶを抜けば五瀬(イセ=伊世=伊勢)となる。ここで立派な五ヶ瀬=伊勢=壱與が完成するが、当然ここも壱與が生んだ国という事になり、この地が伊勢であった何よりの証拠となるのである。つまり伊勢は三重県だけに限らず、伊勢神の居た処は全て伊勢国と呼ばれた事になり、何よりも伊勢神宮の遷宮の歴史がそれを証明してくれているのである。この地よりヤマトタケルは、白鳥となって大空に飛び上がった事は前回述べた通りだが、まだまだヤマトタケルの話はそれだけでは終わらず、白鳥はこの地から更に倭の琴弾原(=琴引原=コトヒキハラ)に留まり、そこから更に旧市邑に留まったとされ、そのどちらにも陵が造営されたと記紀には記されている。最終的に留まった地が、現在の大阪羽曳野市にある白鳥陵という事になるのだが、ここでなぜヤマトタケルが白鳥になったのか、普通に疑問が生まれる。この白鳥が何かを暗示させるものとすれば、白をシラと読み、鳥をオと読めばシラオに行き着くのだが、これはつまり新羅王(シラオー=白鳥)になったと解釈出来るのである。それは以前述べた通り、志賀=日国=シラが語ってくれるが、日向を志賀の当て字とすれば、本来は日国(=ヒラ=シラ)であり、熊本が肥の国(=日の国=火の国)=肥後(ヒゴ)と呼ばれた事も充分うなずけるし、火山(阿蘇山)の麓に高穴穂宮(高千穂)があるのも偶然とは言えないのである。つまり自身の推論が正しければ、ヤマトタケルはスサノオを倒した時点で、既に日国(新羅)王=肥ヶ王(シガ王)の称号は手にしていたのである。これを記紀編纂者は、景行天皇(ヤマトタケル)をどうしても新羅王(シラ王)にさせたくないが為、あるいはこの天皇の殺戮の歴史を決して記紀に残したくないが為に、景行天皇の行為を、敢えて皇子ヤマトタケルの行為として創作したのではないだろうか、、、これなら景行天皇やヤマトタケルが、神として祭られない理由も理解出来るし、ヤマトタケルの行為の記述が、圧倒的に他の天皇や皇子を上回る事の説明にもなるのである。ちなみに記紀の編纂が開始されたのは天智天皇(元は新羅王)からであるが、当然記紀編纂者も新羅の人間で、この出来事は数百年経っても忘れ去られてはいなかったのである、それほど景行天皇の殺戮行為は凄まじく、その行為は決して許されるものではなかったのだろう。とにかく天孫降臨地とされるこの高千穂は、高千穂神社卑弥呼を祭る岩戸神社など、現在でもスサノオやヤマトタケルに関連する地名が数多く残る稀な地であり、間違いなく古代ロマンに浸れる事の出来る地なのである。