この城跡は、数年前「山城賛歌」で九太夫城の現況報告を終えた後、メールで「その丘陵先端部に隣接して、もう一城館城がある」、との情報を得た事により、初めてその所在位置を知り得た城跡の一つであるが、既に遅かりし!自身にとっては残念ながら効率の良い同日訪問とはならなかった。今回は再び中馬野地区の訪城プランを立てる事によって、やっと訪れる事が叶えられたが、先に地元の方に紹介されて寄った岩ノ谷城同様、実に見応えのある城跡であった事だけは先にお伝えしておきたい。城史に関しては山下氏の居城と伝わっているが、その詳細は不明。ただ九太夫城と仲良く軒を並べた状態は、福持氏と山下氏は同族であったとも考えられるが、、、

城跡を訪れるには、九太夫城と同一の訪問ルートとなる為、その説明は割愛させて頂くが、「中馬野バス停」からは登城ルート図を参考にして、赤ラインを辿って頂ければ迷わず辿り着ける筈である。ただし城跡まで繋がる確かな山道ルートは、麓にお住まいのO氏敷地を通過させて頂く事になるので、必ず氏に声をかけて承諾を得る事が必要となる。ただし早朝に訪れた場合は、声をかけるにも気を使う事になるので、谷筋に沿って直登する手立てが必要となるかも、、、もちろん九太夫城との同日訪問であれば、そのまま北斜面を谷筋まで下りて、再び上り返すだけでよいのだが。

登城ルート1登城ルート  城跡概念図3概念図 (2) 大空堀か10大空堀(南谷筋)

城跡の形態は概念図を参考にして頂ければよいが、九太夫城より遺構残存度も含め、全ての点で劣るのは仕方がないが、切岸だけに限れば、その見応えは同等かそれ以上とも思えたのである。その中で見所遺構と言えるものは、全て概念図に拾い上げたつもりだが、石垣の多用が特長として挙げられよう。石列も含めた石垣跡は郭壁の至る所で露見しているが、横矢のかかる登城虎口付近、あるいは郭区画として、あるいは空堀側壁でと、石垣跡と屹立する見応えのある切岸だけで、充分見学者の眼は楽しませてくれるものとみた!当時主郭四方を取り囲んでいたと思われる土塁は現在、南東正面に備わっていたと思われる土塁虎口と共に、北側の土塁同様消失しているが、これがこの城を語る上で最も残念な部分!当然当時の縄張りは見学者の想像に委ねられる事になるが、土塁の消失は伊賀の多くの館城と同様、必ず付いて回るものなので、想像が付くだけまだましと思えばそれでよいのかも知れない。ちなみに空堀は九太夫城との境(南谷筋)で豪快極まりないものを拝む事が出来るが、これは一見自然に形成された谷筋(画像に注目)のようにも見えるが、この城の普請量から思えば、間違いなく人の手が入ったもの(美しい!)であり、城中最大見所遺構の一つとも自分の眼には映ったのである。

東郭11広大な東郭 空堀痕15土塁空堀痕石列 堀切18堀切

土塁郭21北土塁郭 主郭33主郭 石積み32主郭石積み

主郭切岸42北より主郭切岸 登城道横矢46登城道石垣 東下段郭53東下段郭

現状(二月訪問)城跡は、全域が植林地にあるせいもあるが竹林雑木藪地は皆無、蔓延る雑木の類も少なく、それなりに見通しは利き、更に踏破探索し易く、遺構見学とすればこれ以上望めない状態が自然維持されている。屹立する土塁や切岸の醍醐味、空堀、石垣跡と、城郭を形成するパーツは全て揃ったものであり、更に縄張り妙味を感じさせてくれる部分もあり、城跡を個人的に評価するのであれば、間違いなく期待に応えてくれる城跡の一つ、あるいは見所満載の城跡という事にはなるだろう。先にリポート掲載を終えた鼻倉氏城、岩ノ谷城と併せた三城同日訪問は是非お薦め!九太夫城がまだ未訪の方にとっては、自ずと四城同日訪問という事にはなるが、移動距離は少なく四時間もあれば充分見学も終えられるだろう。
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この城跡は今回の中馬野地区における訪城プランの中には入っていなかったのだが、鼻倉氏城の所在位置を地元で訪ねた際、初めてその存在と所在位置を知り得た城跡でもある。非常に得した気分で城跡へ足を向ける事になったが、遺構残存度が非常に高く、規模も比較的大きく、想像以上の城跡と巡り合えたことだけは最初にお伝えしておきたい。あの遺構残存度の抜群の大規模な城郭遺構福持九太夫城には及ばないまでも、それに匹敵するが如き規模の城郭遺構が、この小さな集落にまだ残っていようとは(これが素直な感想)、、、nnn 感激! 城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには、先に触れた鼻倉氏城と共通する訪問ルートとなる、県道二号線へ進入する事が先決となるが、自身は事前に地元の方から、二号線沿いにある登山口は所在位置と共に確認に及んでいたので、鼻倉氏城から南尾根段郭群を通過して、更に広い休耕植林地をぬける直登ルートで臨むに至ったが、鼻倉氏城からは数分の距離にあると思って頂いてもよいだろう。ルート図中に示した二号線沿いにある登山口は自身にとっては下山口ともなったが、どちらをチョイスしても二城同日訪問を前提とするのであれば、山城巡りとしては効率のよいものであり、楽しめる事請け合いとも思えたのである。ただし車で鼻倉氏城まで乗り付けたのであれば、また同じ直登ルートを引き返す事は避けて通れないが、、、

登城ルート1登城ルート 城跡概念図3概念図  登城道10登城道

城跡の形態は概念図を参考にして頂ければよいが、主郭の三方を土塁で囲んだもので、その背後にはお定まりともいえる堀切が施されたものである。概念図に描いた主郭を含めた便宜上の郭3までの主要四郭までが、郭1と2の西正面部分で大型の虎口地形(石積み跡の残る)が眼に留まった事もあって、本郭群に相当するものと思えたが、そこから麓に向けて幾重にも連なる休耕植林地も、当時における縄張りとするのであれば、相当大規模な城郭という事にはなるだろう。当然見学者の想像に委ねられる部分となるが、、、見所遺構は全て概念図には示したが、堀底からの切岸高低差約4mを誇る見事な堀切土塁内壁高低差6m以上を誇る切岸、鋭角に削り落とされた郭側壁を形成する全ての切岸、とにかく鋭角に刻まれた切岸は全て見所と思って頂いても良いかもしれない。石積み跡は郭側壁部分や郭境となる切岸部分の随所で眼にする事が出来るが、麓に近い民間屋敷跡地(推察)や休耕植林地を除けば、当時の石垣跡としてもよいのではないだろうか。ちなみに空堀は主郭北側斜面で、土塁の付随した溝程度の横堀を拝めるが、これはどうやら水田に水を引いた際の配水溝の様な気がしないでもない。土塁に見えるものは自ずとその畦道という事になるのだが、縄張りとしての必然性を思えば、武者隠し的な空堀という事になるのかも、、、取り敢えず見学者における想像物件という事にしておきたい。

石垣跡11石垣跡 西郭群南側壁17西郭南側壁石垣 切岸52郭3切岸7m

空堀土塁26北空堀土塁 堀切35堀切 主郭中央47主郭中央

低土塁37南側連続低土塁 高土塁45主郭高土塁 土塁南切岸50南土塁壁
 
現状(二月訪問)城跡は、堆積物のせいでそれなりに地表風化は進行しているが、間伐の行われた植林地にある事が幸いしたものか、倒木は多いが蔓延る雑木の類は少なく、見通しは利き、更に遺構の判別確認も容易く、遺構見学とすればレベルの高いコンディションの下にあると思って頂いても差し支えないだろう。最後に城跡を個人的に評価する事になるが、土塁、空堀、切岸、更に石垣跡と、城郭を形成するパーツは全て含んでおり、上に挙げた見学材料の数々や、遺構残存度の高さ、更に切岸の醍醐味(凄いの一言!)思えば、お手軽感は加味せずとも、背中を押してでもお薦めしたい城跡の一つという事にはなるだろう。これを機に訪れる用意のある方は、是非期待して臨んで頂いてもよいのではないだろうか。
城跡は三重県伊賀市奥馬野にあって、現在地デジアンテナ施設のある丘陵上に位置している。城史に関しての詳細は不明であるが、鼻倉氏の居城と伝わっている。ただ築城環境やその規模(小規模)を窺う限り、山上を詰城とするのであれば、当然麓に居館跡があって然るべきか、、、

城跡を訪れるには、「山城賛歌」で数年前現況報告を終えた、福持九太夫城を起点とすればその所在位置も分かり易いとは思われるが、二号線に進入する事が先決となる。奥馬野地区あるいは中馬野地区まで到達すれば登城ルート図を拝見して頂きたいが、道標の掲げられた三叉路で奥馬野に向いて進行、その二筋先で林道へ向いて右折すればよい。車で目印となる地デジアンテナ施設までは充分乗り付ける事が出来るが、自身は道路状況が分からなかった為に麓から歩いて上った。地デジアンテナ施設の直ぐ右手先にあるのがこれから臨む城跡で、林道からも堀切は直ぐ確認出来る筈である。

登城ルート1登城ルート 城跡概念図3概念図 虎口10虎口

城跡の形態は概念図を拝見して頂ければよいが、伊賀においては定番ともいえる四方土塁囲みの城郭で、林道側の低土塁が少し欠損した程度で、土塁に関してはほぼ完存に近い状況にある。その背後には当然尾根を断つべく堀切が施されているが、この空堀は本来なら林道側にも施されていたものと察せられる。現状林道敷設によって消滅したものとなっているが、これが唯一残念な部分。主郭の規模は内部全長10mにも満たないもので、機能とすれば見張台程度であったものと思われるが、高土塁内壁高低差6mを誇るものであり、西側に開いた見事な虎口や、麓まで鋭角に削り落とされた南斜面における切岸並んで、間違いなく見学者の期待には応えてくれるものとみた!虎口から西側にも郭は展開されているが、この西郭群では明瞭な土塁(受け土塁)も眼にする事が出来るだろう。便宜上西郭3としたまでが当時の縄張りと察せられるが、ここから麓に向いては全て開墾された休耕地となっているので、当時の縄張りは自ずと見学者の想像に委ねられる事となるだろう。ちなみに谷状地形を隔てた南尾根先端部も好奇心から覗いてみたが、明瞭な切岸跡の残る段郭群(画像に注目)が展開されていた事はお伝えしておきたい。主郭の規模は小さいが、城域であり縄張りは間違いなく南尾根にも及んでいたのである。

主郭内部14主郭虎口側 高土塁12高土塁6m以上 堀切23堀切

西郭土塁32 土塁 南切岸27西郭南切岸 南尾根段郭群南尾根段郭群

現状(二月訪問)城跡は、矢竹の生い茂る西端郭を除けば縄張りも掴み易く、それなりに見通しは利き、目を凝らさなくても外見から遺構の全てが判別確認可能な、遺構見学としてはこれ以上望めない素晴らしいコンディションの下にあると思って頂いても差し支えないかもしれない。下草の蔓延らない美しい堀切や郭側壁を形成する見事なまでの切岸、見応えのある高土塁、どれをとっても見学者の期待に応えてくれるものばかりで、城跡を個人的に評価するのであれば、自ずと是非お薦め出来る城跡の一つといった事にはなるだろう。ただし規模や縄張り妙味までは決して問わない事が大前提。
城跡は三重県伊賀市坂下にあって、「山城賛歌」で数年前現況報告を終えた福持氏城や、その当時坂下集落の全てが望めたと思われる、標高約490mを測る山頂に位置している。城史に関しての詳細は不明であるが、自身がその形態や築城環境、更に規模を窺う限り、限りなく陣城のそれに近いものと思えた。

城跡を訪れるには2号線へ進入する事が先決となるが、麓から城跡の位置する山々は充分望めるが、その峰を特定する事は叶わず、福持氏城を訪れた際車を預けた「坂下コミュニティセンター」を起点として登城ルートの説明をさせて頂く。センターの西側にある「酒解神社」を目指して狭い地元生活道路へ進入する事になるが、神社からは登城ルート図の赤ラインを辿って林道へ進入、更に林道に任せて峠まで上ればよい。そこから先は少し下り道となるが、一つ目の林道三叉路で左折すればよいだろう。この付近の空きスペースに車は駐車し、そこから更に数十m歩けば目印となる見事な切り通し道(神社先から始まる登山道終点地)が現れるが、この切通し道には進入せず(画像に注目)、そのまま林道に任せて登れば直ぐ右手に現れる山道へ進路変更、ここを登城口として山道に任せて上れば、直ぐに概念図に描いた薄い堀切地形を伴う虎口地形(推察)が迎えてくれる筈である。

登城ルート1登城ルート 城跡概念図3概念図 虎口地形14虎口か

城跡の形態は、自身が踏破して判別確認に及んだ遺構を記した、概念図を参考にして頂きたいが、全長20m程度の折れのある低土塁で囲まれた郭が主郭と見受けられる。そこから西痩せ尾根側には20mにも及ぶ明瞭な土橋が施されており、その西尾根最高所に向いて連なるのが便宜上の西郭群で、低土塁で両岸が防備された15m程度の郭跡、更にその最高所における物見程度の郭跡では、堀残した受け土塁縦堀地形も拝めよう。この地から少し北斜面を下れば痕跡程度の薄い堀切と、自分の眼にはここまでが縄張りとしての北限と映った。主郭から南側に続くやせ尾根上にも郭は展開されているが、この便宜上の南郭では削平地を含めて、土塁痕程度までは確認出来る筈である。空堀は縦堀として概念図に示した箇所で充分確認出来るが、自然地形の可能性も含んでおり、これは見学者の判断に委ねられる部分となるかもしれない。見所遺構は陣城らしい低土塁と連続する土橋だけに限られるかも知れないが、この痩せ尾根の両岸を鋭角に削り落とした、明瞭且つ美しくもある土橋は、山城ファン必見の遺構とみた!

東郭17東郭 主郭20主郭内 低土塁21主郭低土塁

低土塁22主郭低土塁 縦堀地形43南縦堀地形 西土橋28西土橋

西郭土塁32西郭土塁 西端郭33西端郭 縦堀34西郭縦堀

現状(二月訪問)城跡は、全体が植林地にあるせいもあるが、蔓延る木々は少なく、それなりに見通しは利き、無名に近い山城とすれば、非常に見学し易い状態が自然維持されている。よって概念図に拾い上げたまでの遺構は全て判別確認は容易く、縄張りを見極める楽しさも含め、踏破探索する楽しさも充分味わえる状況にあると思って頂いても差し支えないだろう。ただし切岸や鋭角に刻まれた空堀などの様に、見応えの感じられる遺構が少ないのが難点といった事にはなるが、、、城跡を個人的に評価するのであれば、先に触れた他の山城では滅多にお目にかかれない連続土橋が拝める事、それに車を降りて数分で辿り着けるお手軽感も含めれば、充分お薦め出来る山城の一つと言えるのではないだろうか。これだけ山深き地の更なる山頂に城が築かれた事自体が山城ロマン! 陣城に興味を持たれている方には、当然お薦め出来る山城の一つ。
城跡は三重県伊賀市千戸にあって、先にリポート掲載を終えた千戸別城とは東へ一山越えた丘陵先端に位置している。城史に関しては福川氏の居城と伝わっているが、氏は天正伊賀の乱で滅亡に追い込まれた、多くの伊賀士豪とは異なり、戦国期を上手く乗り切ったようで、その末裔の方は今でも生存中であると聞いた。もちろん城跡の真下にある屋敷跡地に、現在もお住まいとは思われないが、その詳細は不明

城跡を訪れるには、千戸別城と共通の訪問ルートとなるので、それまでのアクセス方法は割愛させて頂くが、国道163号線からは赤ラインを辿って頂ければ迷わず辿り着ける筈である。ちなみに城跡へ向かう南北を結ぶ地元生活道路中央には車止めがあるが、その右手側にある祠側が城跡になる。

登城ルート1登城ルート 城跡概念図3概念図 (2) 屋敷跡土塁5屋敷土塁

城跡の形態は概念図を参考にして頂ければ、そのシンプル極まりない形態が故に、当時における館城としての姿の想像も容易いとは思われるが、伊賀の館城にあっては定番ともいえる、四方土塁囲みの方形居館跡である。現状四方に施されていたと思われる土塁の南側と西側に欠損した部分があるが、土塁のほぼ消失した南側に本来虎口が開いていたものと察せられる。その南真下にある住宅地が当時の屋敷跡地と伝わっているが、現在でも道路傍で土塁の一部(画像に注目)を眼にする事が出来るだろう。空堀は高土塁北背後の削平地との境でお目にかかれるが、現状非常に薄いものであり、土塁の外壁高低差約4mの切岸に見応えは感じられても、深さの失われた溝程度の空堀にはとても期待は出来ないものと思って頂きたい。土塁は東西に施された低土塁と主郭背後内壁高低差4m近い高土塁とに明確に分類されるが、これも伊賀の館城の多くに見受けられるもので、前面土塁は少し低く、背後は高目にといった形が採られている。ちなみに土塁西斜面には道路側に向いて縦堀らしき地形が刻まれていたが、当時の遺構としての正否判定は少々困難、築城環境を考慮すれば、東側の大きな溜池が水堀代わりで、道路側が当時の堀切跡とも推察可能であるが、これも推察の域は出ないものである。

縦堀地形8縦堀地形 土塁外壁11北土塁切岸 空堀10北空堀

主郭内20主郭内 土塁西内壁19土塁西内壁 東土塁上13東土塁上

現状(二月訪問)城跡は、多少薮化は進行しているものの、植林地にある事によってそれなりに見通しは利き、歩き廻る範囲も限られたものであり、遺構見学とすれば充分楽しめるレベルにあると思って頂いても差し支えないだろう。城跡を個人的に評価すれば、住宅地が直ぐ傍まで迫る城跡としては密生竹林地は皆無、自身が窺う限り、意外に欠損した部分の少ない城跡なのかもしれないが、この見学材料の少なさを思えば、圧倒的お手軽感を加味した上で、国道移動中に少し立ち寄る程度と言った、割り切った訪問が必要となる城跡という事に落ち着くのではないだろうか。全体像の窺える佇まいは中々素晴らしいとは思えたが、、、、