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城跡は奈良県宇陀市榛原町三宮寺にあって、既にリポート掲載を終えた平井城とは、川を挟んで西側の低丘陵上に位置している。城史に関しての詳細は不明であるが、自身が両城を覗いた限り、主郭を土塁が取り巻く形状、あるいは土塁がすぼまった形の土塁虎口の形状が物語る様に、この縄張りプランは同じ築城者によるものではないかと眼に映ったのである。その様は陣城の様でもあるが、、、

城跡を訪れるには、一般道31号線へ進入する事が先決となるが、目印として目指すのは城跡直ぐ隣にある広大な敷地を所有する「野菜研究センター」で、その門扉の南側数十m先の斜面を直登取り付き口とした。ここから上れば直ぐにでも丘陵上へは辿り着けるが、右側へ歩けば便宜上の西郭群、左手山側へ向いて上れば本郭群という事になる。

登城ルート1登城ルート 城跡概念図3概念図  (2) 西尾根郭群39西尾根削平地 空堀痕

城跡の形態は、自身が踏破した範囲で遺構と眼に映ったものだけを描いた、概念図を拝見して頂ければお分かり頂けるとは思うが、本郭群は腰郭を伴う二郭構造で、全長20m規模の主郭周囲を低土塁が廻ったものである。もちろん空堀は主郭と繋がる尾根を断つ形で施されているが、その西側前面は大土塁を挟んだ形の二重堀切、背後は土橋付堀切と、数世紀に渡る侵食によってそれなりに地表風化は激しいものの、見所遺構として充分見学者の眼は楽しませてくれる筈である。低土塁も空堀と同様相当地表風化が激しいが、場所によっては直ぐそれと分かるものであり、それが城跡中最大見所遺構と言える土塁虎口まで繋がる様は、中々他に類を見ないものであり、正に一見の価値ありとみた!しかもこれだけ地表風化が激しい中にあって、堀切側からその全貌が窺える様は見事(画像に注目)の一言!もちろん切岸跡も未だ健在で、3m程度ではあるが、切り立つ見事なものを拝める筈である。ちなみに本郭群から西側へ向いて繋がる、西郭群とした西尾根上郭群も、空堀の痕跡や部分的に切岸の痕跡が窺えた事で、当時の縄張りにおける削平地としたが、これは段郭群を連ねただけではあるが、全長80mにも達するもので、縄張りプランとしての必然性も考慮すれば、自ずと西出郭群として機能していたものと考えられるのである。当然見学者の想像物件という事になるが、古墳が先に築造されたものである以上、自ずと西郭群は古墳跡(推察)の転用地という事になろうか、、、

二重堀切8二重堀切側面  切岸約高3m12二重堀切切岸 主郭内15主郭内部

土塁虎口内20土塁虎口内側 土塁虎口外18東土塁虎口  虎口全貌23土塁虎口及び堀切 

土橋付堀切23土橋付き堀切  腰郭28南腰郭 南堀切31南堀切 (切り通し)

現状(11月訪問)城跡は、先に触れた様にそれなりに侵食は激しいものの、コンパクトにまとまった城郭であるだけに縄張りは掴み易く、旧い墓地が存在する事によって主郭内における見通しは利き、歩き回り易く、更に臨場感も味わえ、間違いなく楽しめる状況にあると思って頂いても差し支えないだろう。本郭群だけを捉えれば小規模な砦規模の城跡という事になるが、上に挙げた主郭周辺に凝縮された見応えの感じられる遺構の数々や、南尾根側における削平地及び堀切(山道の繋がる切り通し)と、これらは当時の堀切かどうかの正否判定までには至れなかったが、西尾根郭群から本郭群へ向いて上り、更に南尾根側までの踏破探索とすれば、縄張りを究めるといった部分においては、間違いなく楽しめる様な気がしたのである。以上の事から城跡を個人的に評価するとすれば、圧倒的お手軽感は加味せずとも、期待外れには決して終わらない、是非お薦め出来る城跡の一つという事にはなるだろう。
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城跡は奈良県宇陀市榛原町麻生田にあって、集落の西側に聳える標高約490mを測る山上尾根に位置している。城史に関しての詳細は不明であるが、この築城環境を思えば、自ずと女寄峠を監視した山城という事になるのではないだろうか。

城跡を訪れるには国道166号線へ進入する事が先決となるが、目印とした「女寄トンネル」を抜けた後は登城ルート図を参考にして頂きたい。登城登山口は「みろく教本部」建物の塀の端(画像に注目)で、そこから始まる山道に従って上れば、約10分で便宜上の北郭群へは辿り着けよう。この山道は恐らく鉄塔メンテナンス道と思われるが、鉄塔の建つ南城までは間違いなく繋がっているので、決して迷う事はないと思われる。

     登城ルート1登城ルート 城跡概念図3概念図

城跡の形態は、概念図を拝見して頂ければそれなりにお分かり頂けるとは思うが、北城、中城、南城と、それぞれ機能の異なる城郭が山上尾根に並んだもので、その城域となる郭総全長は百m以上には達するものであり、大型の山城と呼ぶに相応しいものといえようか。その縄張りにあって、西尾根郭群も含めた郭総全長は40mに及び、規模の大きさと両端に空堀が施されている事を理由に、概念図中では南城を主郭としたが、当然議論に及ぶまでの事ではないだろう。ただし見所遺構は北城に集中しており、ここでは低土塁痕、切り立つ切岸、堀切と、城郭を形成する三要素は確実に拝める筈である。中城は鞍部を削平しただけに終わったもので単郭構造となっているが、規模は相当大きく(全長40m)、見応えのある大土塁を主郭側に伴っている。南城主郭には現状鉄塔が建っており、それによる地形改変によって、東堀切周辺遺構は部分的に消失したものと眼に映ったが、縦堀の痕跡から想像も加味すれば充分土塁堀切跡と想像が付くものである。主郭南斜面側にも空堀は施されているが、これは土橋付堀切として直ぐそれと分かるものであり、充分見応えの感じられるものとなっている。

北城主郭13北城 主郭 低土塁14 北城主郭低土塁 北城切岸8北城 主郭切岸約4m

北城堀切10北城堀切 中城及び大土塁25中城 大土塁 南城主郭33南城主郭

東堀切40南城 東堀切 南城北西郭群37南城 北郭群 南城南堀切35南城 土橋付堀切

現状(11月訪問)城跡は、鉄塔が建つ事も理由になるが、縄張りにおける全域が間伐の行われた植林地となっており、見通しが利き、更に踏破探索し易いことによって縄張りも掴み易く、遺構見学としても山歩きとしても間違いなく楽しめる、訪れる人の滅多にいない、それも認知度の非常に低い山城とすれば、抜群とも言えるコンディションの下にあると思って頂いてもよいだろう。それに加えて上に挙げた見学材料となる遺構の数々、更にトレッキング程度で迷わず辿り着ける事まで加味すれば、自ずと城跡の評価としては、是非お薦め出来る山城の一つといった事にはなるだろう。ただし縄張り妙味も含めて、これが特に見応えもあり素晴らしいといった、突出感のある遺構が眼に留まらなかった事を思えば、城跡に過度な期待は禁物!といった事になろうか。
今までは四国がかつての邪馬台国であり、その国名は倭の五王が君臨した倭国であった事を、その証拠となる地名や統治支配した王名を挙げて、数回に分けて述べさせて頂いたが、今回は邪馬台国が倭国に変わって行くまでの過程を、大雑把ながら集約してみたので、興味のある方は是非もう一度ご拝読願いたい。
今までの経緯を思えば、四国(シコク=シマ=耶馬=八幡国)は間違いなくかつての邪馬台国が国名を替えた後の、倭国(オオマ=大国=ダイコク=ウマ)と言わざるを得ないのであるが、倭国の歴史は魏志倭人伝にその国名が初めて登場した邪馬台国から始まったもので、それは魏志倭人伝に記載されているように、中国側からみた当時における日本の真実が綴られたものでもある。当然ここではまだ倭国という国名は登場していないが、倭の面土国王「帥升」が最初に登場した国王であった事は、以前お伝えした通りである。この王は高句麗皇統史に名を残す高句麗王であった事も、その国が二世紀には九州の球磨川流域にあった事も同時に述べて来たが、この時点で他国からみれば、この地は倭人の支配する国であった事も充分理解出来たのである。

この魏志倭人伝の中に登場する邪馬台国の都は当時(三世紀)鹿児島県(薩摩)にあり、その都は鹿児島神宮で、卑弥呼とその男弟とされる崇神天皇(ミマキイリヒコ=海幸彦)が君臨していた。つまり邪馬台国は女王卑弥呼から始まったもので、スサノオによる倭国討伐(=桃太郎の鬼退治)によって、政権はスサノオ(垂仁天皇=山幸彦)に移り、卑弥呼もそれによって亡くなり、国名は邪馬壱(ヤマイチ)国へと名を変えた。それに納得出来ない人民による内乱で再び国は乱れたが、スサノオは次の卑弥呼に当たる女王壱與(=かぐや姫)を立てて内乱はやっと治まった。それでも納得しない卑弥呼側の倭人政権は、あの卑弥呼の弔い合戦ともいえる、「猿かに合戦」によってスサノオ=熊襲タケルを討伐、その中心人物があのヤマトタケル(景行天皇=八幡=八坂入彦)で、その皇后となった壱與(=乙橘姫=乙姫=オト姫)は神の神託により入水(生贄)自殺、そのヤマトタケルもついに高千穂で病死、その後政権はスサノオと豊玉姫の子である応神天皇(正八幡=コンディ=倭王旨)へと移り、その間における都も宮崎県(高千穂)から大分県(宇佐)へと移動、ただし都といっても百済や高句麗、更に新羅や任那まで九州に存在していた事、あるいは領土を奪い合う戦乱の時代にあった当時の状況を思えば、本来の都は一時的なものであり、その地の断定となると非常に難しいのが現状でもある。
邪馬台国はその後、応神天皇からその息子に当たる仁徳天皇(倭王讃=広開土王=大雀=ウサギ)へと政権は移ったが、その都は更に海を渡って愛媛県(宇和島、松山、四万十)や高知県(高須)を経て、仁徳天皇が切り取って君臨した香川県(高松)まで移動した。ここで中国側による呼称である「倭王讃」が登場、つまり邪馬台国の後身ともいえる倭国といった国名が初めて登場したのである。この後政権は応神天皇皇女を娶った、義理の息子に当たる履中天皇(倭王珍)へと移り、この天皇は大阪湾(茅淳海)沿岸部である堺から百舌、更に河内を支配地として君臨、その後政権は血縁関係には全くない百済王である反正天皇(倭王済)に移った。ここで連邦国家ともいえる倭国の宗主国は高句麗から百済に移ったが、ここまでが今まで紐解いて来た倭国の大雑把な歴史という事になる。ここから更に倭国政権は倭王済の息子である倭王興(安康天皇)に受け継がれ、更にその弟に当たる倭王武(雄略天皇)へと引き継がれたのである。

           倭国の都の移動を証明する丸の内の地名
                 四国はかつての倭国

同時にヒバス姫=卑弥呼(ヒミコ)という官名は、応神天皇から後の倭国政権においては全く使用されなくなったが、これは恐らく天皇自らが御神託に委ねられない政治を行い、祭事のみを皇女に託したからと考えられるのである。それは斎姫(イツキ姫=天照大神)という官名が語ってくれるように、ここから斎姫として代々受け継がれていったという事になるのだろう。以前紐解いたように、ヒミコは当て字としての御馬城(ミマキ)姫や日葉酢(ヒバス)姫で、前者は崇神天皇皇后のヒミコ、更に後者は垂仁天皇皇后のヒミコで、皇后として代々受け継がれて行った官名という事も判明したが、この魏志倭人伝だけに登場する卑弥呼は、三世紀半ば(247年頃)には既に亡くなっている(岩屋に閉じ篭った)事は、古代史ファンの方であれば誰でも分かっている筈である。世間の一部で「卑弥呼の墓ではないか?」と囁かれている「箸墓古墳」は、これまで述べて来た邪馬台国~倭国の歴史や登場する倭王の事跡を整理すれば、絶対に卑弥呼の墓でない事は明白、当然鹿児島で亡くなった卑弥呼の墓が近畿圏内にある筈もない!という結論に達するのである。これまで興味を持って「地名が語る、、、」を拝読して来て頂いた読者の方々に対しては、これだけは絶対に間違えて欲しくないし、「三世紀における邪馬台国は近畿圏内にあった」といった説も、実際にはまかり通っているように思われるのであるが、自身としては決して日本国の歴史を誤って理解して欲しくないのである。それなら一体誰の墓なの?といった事になるが、今いえるのは倭人より先に住み着いていた、滅ぼされた側の先住民族の墓といった事になろうか。それは崇神天皇が四道将軍を派遣したと伝わるように、歴代の倭王が長い年月をかけて、支配地を徐々に広げていった結果という事になるが、箸墓古墳を代表とするように、個人名が刻まれていない古墳である以上、これから先も絶対に解き明かされる事はないのである。残念ではあるが、大和朝廷より先んじた先住民族に関しての情報は皆無であり、当然倭国に徐々に取り込まれていった民族や、滅ぼされた側の記録などある筈もないのである。
城跡は奈良県桜井市忍阪にあって、標高約292mを測る「外鎌山」山頂に位置しており、地元でこの山は朝倉富士として親しまれている。城史に関しての詳細は不明であるが、鳥見山城を築いた、戒重西阿の拠った山城と伝わっている。この西阿に関しては、主郭にある墓碑脇に掲げられてあった案内板をクリックの事

この山城は、今年の春先に訪れた鳥見山城と併せた同日訪問を予定していたのだが、その日における最終訪問地としたが故に歩き廻れる体力も尽き果て、後ろ髪を引かれる思いで通り過ぎた、自身にとっては苦い記憶の残る城跡の一つである。今回の山城巡りでは早朝真っ先に訪れる計画をしていたのだが、結果的に国土地理院地図に山道が描かれていた事もあって、山道で迷わず登れるものと安易に考えていた事が災いとなってしまい、中腹まで上ったものの登山道は消滅する始末、更に藪漕ぎの連続で途中で断念。結局今回も山城巡りとしては後回しの、最終訪問予定地となってしまったのだが、山城巡りの帰路に着い際、地元の方に上り易い直登ルートを尋ねたところ、登山道が全く別ルートで山頂まで繋がっている事が判明した。結果的には運よく最終訪問地として訪城する事が出来たのだが、その登山口は登城ルート図に示したので、訪れる用意のある方は是非これを参考にして臨んで頂きたい。
城跡を訪れるには、国道166号線「忍阪」の信号交差点を目印として車を走らせればよいが、その登山口(画像に注目)は城跡から見て北麓にあり、目印とした大きな貯水タンクは、朝倉台の住宅地からも山側に直ぐ望めよう。ここから山頂までは確かな登山道によってトレッキング気分で上れるが、15分程度で辿り着ける筈である。ちなみに付近に充分駐車スペースは確保可能

   登城ルート1登城ルート 城跡概念図3概念図

城跡の形態は、アバウトに描いた概念図を参考にして頂きたいが、全長約20m規模の主郭に帯郭及び腰郭が付随したもので、この険峻な山頂だけを縄張りとする、砦規模の山城と思って頂ければそれでよいとは思われる。南北朝時代に築かれた山城という事もあって、自身は残存遺構には決して期待せずに訪れたが、意外に切岸は主郭北側壁及び腰郭で直ぐそれと分かるものを確認出来た。空堀は全く期待していなかったが、堀切として東斜面で痕跡程度(画像に注目)のものを確認出来る筈である。これだけで充分城跡は語れるのだが、見学材料に乏しい遺構見学はさておき、見通しの利く主郭内における展望所から望めるロケーションは、他の山城では中々味わう事の出来ないもので、とにかく素晴らしいの一言!ただ主郭周囲斜面は笹で全て覆い尽くされた雑木藪地となっており、縦堀や郭跡なども含めた残存遺構の確認がままならないのが一番残念な部分。
ちなみに登山道中の分かり易い箇所に、南北朝期に築かれた石垣跡としたものがあったが、自身の本音を語るのでれば、これは完全に近世に施された治山事業としての土留め石、その理由はもちろん色々あるが、石積みを専門的に見なくても、城跡ファンとして数多くの石垣を見てこられた方なら直ぐ分かる筈である。

主郭北切岸8北切岸 ここまで約15分 北帯郭9北帯郭 主郭12主郭 約20m8mx

案内板1案内板 眺望展望所からの景色  主郭内部12主郭 

主郭東切岸16主郭東切岸 東腰郭18東下段郭 東堀切痕20東堀切痕

現状(11月訪問)城跡は、先に触れたように主郭だけに関しては見通しが利き、素晴らしいコンディションが維持されているが、笹で覆い尽くされた斜面を含めた全体踏破は、困難極まりない状況にあると思って頂いた方がよいかもしれない。もちろん訪問時期にもよるのだろうが、この城郭の規模を思えば、未踏地にそれほど多くの残存遺構が眠っているとも思えず、広々とした主郭に佇めば臨場感が味わえ、眺望が利く事によって山城ロマンに浸る事も出来、ついでに山歩きも楽しめるとあれば、一般城跡ファンの方や史跡ファンの方々には、間違いなく楽しめる山城としてお薦めは出来るだろう。個人的にこういった隠れ家的な山城は大好きな部類に入るのだが、同じ感性を持ち合わせている山城ファンの方に限れば、是非お薦めといったところか。ただし残存遺構に過度な期待をしない事が大前提
城跡は兵庫県豊岡市内町にあって、馬場向城から更に尾根に沿って上った先の、標高約197mの険峻極まりない山頂に位置している。城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには、先に登城リポートを終えた馬場向城の訪問ルートと重なるので、ここでは割愛させて頂くが、この城の二重堀切から、更に尾根に任せてそのまま山頂目指して上って頂ければよい。藪漕ぎもなく10分程度で辿り着ける筈である。

       登城ルート1登城ルート  城跡概念図3概念図

城郭の形態は、全長50m以上にも及ぶ主郭を頂点として、南側尾根に全長約25mほどの少し異形の出郭が形成されたもので、その主郭四方向の尾根筋には縦堀を含めた堀切が施されたものである。これだけ険峻な山頂にありながら、主郭の郭占有面積は非常に大きく、主郭周囲は切岸がそのまま天然の斜面と同化した崖上急斜面、それに空堀を含めた城の防備としては、正に鉄壁とも自分の眼には映ったのである。もちろん切岸を含めたこの空堀群が城跡における見所遺構となるのだが、直登道中の主郭切岸手前でお目にかかれる豪快な縦堀(連続20mにも及ぶ)や、堀切に付随する縦堀、数世紀による地表風化によって薄くなった堀切、大土塁の付随する北東堀切と、とにかく折角ここまで上ってきたからには、便宜上の南出郭群から更に20m程度下った地点の大堀切も含めて、空堀の類は全て押さえて頂きたい。もちろん同時に堀底から立ち上がる切岸郭境となる切岸も、下草の蔓延らない見事なものが拝める事から、これらも間違いなく見学の対象物件という事になるが。
ちなみに広大な規模を誇る主郭の構造は、東側が櫓台が想像されるマウンド地形となっており、西側にかけて帯郭らしきものを伴う腰郭と、当時段差程度で山上は郭区画されていたものとは察しが付くが、現状における切岸の曖昧さを踏まえれば、その祖形に関しては全て見学者の想像に委ねられるかもしれない、、、

縦堀6到達縦堀  主郭10主郭全長約50m 北東郭群22北東端郭

北東堀切27北東堀切 南東堀切16南東堀切 南郭群32南郭群約25m

南大堀切40南端堀切 北東切岸24北東郭切岸約2m 北東堀切27北東堀切

現状(11月訪問)城跡は、直登道中覗いた馬場向城と比べれば蔓延る樹木は更に少なく、遠くからでも遺構の判別確認は容易く、更に見て回り易く、見通しの利く郭跡に佇めば臨場感まで味わえる、山林事業者も含めて人の滅多に訪れる事のない山城とすれば、抜群ともいえるコンディションにあると思って頂いても差し支えないだろう。この山城に臨むに当たっては、お手軽感は全く感じられないが、上に挙げた見応えのある見学材料の数々、コンパクトが故の縄張りの掴み易さ、それに状態の良さまで加味すれば、間違いなく見学に値する城跡、自ずと是非お薦め出来る山城の一つといった事になるだろう。山城ファンの方に限っていえば、二城併せた上で是非期待して臨んで頂きたい。