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城跡は滋賀県甲賀市土山町鮎河にあって、標高約400mの山頂に位置している。城史に関しては南北朝期に成立した頓宮氏の城と伝わっているが、空堀(縦堀や横堀)を駆使した縄張りプランから窺えるように、戦国期までは改修を施しながら機能していた山城と自身の眼には映った。

城跡を訪れるには国道一号線を経由した後に9号線へ進入する事が先決となるが、既に黒川氏城大河原氏城を訪れた方ならその位置も分かり易いとは思われるが、自身は両城共に二十年前訪れてはいるものの、残念ながら未だ再訪は果たしていない状況にある。もちろん今回も滞在時間の関係で立ち寄る事が叶わなかったのだが、9号線沿いにある「鮎河小学校」を目印として目指せばよいだろう。登城口となるのは城跡南麓にある「鷹尾山地蔵堂」で、その背後左手側にある集合墓地脇に備わる「高尾城」と描かれた道標を目印として上り始めればよい。ただし確かな山道は存在しないので、ここからは前の開けた急斜面を尾根先に向いて直登する事になるが、藪漕ぎもなく五分もあれば辿り着ける筈である。

      登城ルート1登城ルート 城跡概念図3概念図

この城郭は自作概念図を拝見して頂ければお分かり頂ける様に、全長約25m程度の主郭の東西に尾根を断つ堀切が施されたもので、西側は土塁郭を挟んだ形の二重堀切となったものである。空堀の類は武者隠し機能が想像される、受け土塁の付随した横堀として主郭南北両側面に施されてはいるが、現状数世紀に渡る地表風化の為非常に浅く、何とか判別確認は可能な状況にはあるが、痕跡程度といった所で見応えまでは期待しない方がよいかもしれない。ただし東西二箇所に施された堀切は片側が明瞭な縦堀として落とされるもので、充分見学者の期待には応えてくれるものとみた!ちなみに南側横堀付近に畝状空堀の遺構標識が備わっていたのだが、自身が斜面を移動しながら目を凝らした限り、そういった地形は全く眼に留まらなかった事だけは参考としてご報告しておきたい
結果的にこの城跡は規模は非常に小さく、詰城機能が想像される見張り台も兼ねた山城という事になるが、痩せ尾根上を削平し郭側壁を切岸化した様は、施された土塁や空堀、あるいは鋭角に刻まれた切岸が物語る様に、充分本格的普請が窺えるものという事になろうか。見所遺構は自ずと上に挙げた遺構群という事になるのだが、防備機能が堀切だけに終わっていない縄張りプランと並んで、充分見学者の眼は楽しませてくれるだろう。

西堀切17西二重堀切1  西堀切28 西二重堀切2 縦堀9縦堀

南横堀11南横堀土塁    主郭南切岸13南側切岸約6m高 主郭15主郭内全長約25m

東堀切17東端堀切 縦堀19縦堀 北横堀土塁痕22北側二連土塁開口部

現状(九月訪問)城跡には遺構標識も備わり、山城初心者の方でも充分楽しめる状況にはあるが、肝心の主郭は堆積物などで非常に荒れた状況にあり、間伐の行われていない主郭に佇んだとしても、とても臨場感まで味わえる状況にはないと思って頂いた方がよいかもしれない、、、しかも城跡をほぼ縦断する獣除けフェンスが歩き回れる範囲を中途半端に狭くしており、とても誇れるコンディションとは言えないのが現状である。もちろん山城ファンの方であればほぼ日常的な事で、苦も無く楽しめる状況にはあるのだが、折角遺構標識が備わるのであれば、一般城跡ファンや史跡ファンの方々の為にも、せめて登城山道だけでも敷設して頂きたかったといったところが本音になるのかもしれない、、、、
これだけ小規模にも関わらず意外に見学材料は多く、それなりに見応えもあり、更にお手軽感を加味して城跡を個人的に評価するのであれば、自ずとお薦め出来る山城の一つといった事になるのではないだろうか。もちろん規模は一切問わない事が前提とはなるが。
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藤原鎌足は自身が同一人とした聖徳太子と並んで謎の部分が余りにも多い事は、今まで述べて来たことで充分お分かり頂けたと思うが、今回はその闇に葬り去られた部分にスポットを当ててみたい。これは記紀が歴史を把握しないまま、あるいは百済や倭国の歴史を出来るだけ抹殺したいが為、数十人に及ぶ官名の異なる鎌足の分身を創り出していた事によるもので、結果的に藤原鎌足は日本の歴史が覆されるほどの、とんでもない人物だったという事になるのだが、今回は前回更に大どんでん返しが待っていると述べた、その一つを語らせて頂きたい。

鎌足が亡くなる直前に天智天皇から藤原の姓を与えられた話は以前述べた通りであるが、記紀における情報の順番でいけば、自身が最初に思ったように、即位後の天智天皇がその妃を藤原鎌足に与えたものと誰もが思ってしまう。これではどうしても話の辻褄が合わないし、天智天皇(=金春秋)が倭国政権を倒してまで奪った倭姫王(=鏡王女=邪馬台王)を、臣下となったウマシマジ(=金庾信=藤原鎌足)に妃として与える理由が全く見つからないのである。ここで金庾信の没年とされる673年が気になるところであるが、天智天皇はそれ以前の山科における狩の途中で行方不明(暗殺されたと個人的に推察)になったとされており、この没年を信用するのであれば、実際には鎌足は天智天皇の後に亡くなっている事が判るのである。これが今回の話の肝となる部分でもあるが、ウマシマジが長髄彦を討った以上、政権は百済王の入り(人質)王子となっていた、ウマシマジに最初に渡ったものと考えるのが当たり前で、これが孝徳天皇政権から天智天皇政権との間に挟まる形の政権と考えれば、間違いなく話の辻褄が合うのである。これこそ教科書で学んだ推古天皇(=斉明天皇=鏡王女)の摂政となった聖徳太子の実態で、つまりこの時点ではまだ倭姫王は天智天皇皇后とはなっておらず、天智天皇に政権が移行するまでの橋渡しとなる政権が、聖徳太子による摂政とされた倭国政権、その後倭姫王が皇后として天智天皇に渡った時点が、天智天皇の即位という事になるのである。記紀では天智天皇が藤原姓を鎌足に与え、更に妃まで与えた事になっているが、真実は天智天皇が思いもよらず先に亡くなった理由により、倭姫王は鏡王女(=ケイ王女=蝦夷王女)として藤原鎌足に渡った。これが今まで誰も紐解く事が出来なかった真相で、これなら全ての辻褄が合うのである。それに鎌足に授けられた藤原(=百済、倭国)姓は、明らかに倭国王としての最高官位名、これでその存在に疑問が持たれた聖徳太子は、一時的ではあるが、間違いなく鏡王女=斉明天皇を妃に迎えた倭王(=天皇)だったという事になるのである。もちろん鏡王女はそれなりの年齢と想像が付くので、倭国の民を懐柔する上での人質(政略結婚)としての妃という事になるが、、、これが以前自身が倭姫王はたらい回しにされたと述べた事の真相といった事になろうか。

天智天皇が突然亡くなった(記紀に理由は明かされていない)事をきっかけに、皇位継承を巡った古代史上最大の戦いとされる、大友皇子(弘文天皇)VS天武天皇の「壬申の乱」が起こるのであるが、実際にはかつての倭国政権側による、日本政権打倒の戦いといえるもので、結果的にこの戦いに勝利した天武天皇は、その政権内において左大臣の地位にあった、蘇我赤兄(ソガノアカエ)とその一族を流罪にする事によって 戦後の処理を終えた事になるのである。この左大臣とされた蘇我赤兄こそ、藤原鎌足その人なのであるが、結果的にこの時点までは間違いなく蘇我赤兄は藤原鎌足として生存していたのである。これで間違いなく藤原鎌足は天智天皇より後に亡くなった事が判るのであるが、同時に鎌足が死ぬ直前に天智天皇から藤原の姓を賜ったという事績も作り話という事になる。もちろん最高位の官位ともいえる大織冠を鎌足に与えた事も記紀による創作で、もし仮にこれが事実であるとするのであれば、この大織冠は唐がその白村江の戦いによる功績で授けたものと解釈すべきなのである。
その理由を語りだせば更に話が長くなるのでここでは避けて通るが、ここではまず先に触れた蘇我赤兄と藤原鎌足が同一人である事の証拠を挙げてみたい。この人物は斉明天皇紀において登場する、有馬皇子(歴代馬子=孝徳天皇の分身)を裏切り行為があったとして、処刑に至らしめた人物で、この人物の事績は当て字こそ異なるが、以前述べた事のある百済王子豊璋=ウマシマジが、百済将軍鬼室福信=孝徳天皇を処刑した話と全く重なる話で、蘇我を名乗る以上自ずと蘇我一族の一人という事は理解出来る。名前の赤兄(アケイ)を紐解けば、阿兄(アケイ)あるいは阿蝦夷(アケイ)と当て字が可能で、赤兄をそのままシャクケイと発音すればシャカケイ~ソカケイで、当て字違いの蘇我蝦夷(ソカケイ=ソガカイ)に繋がる名前、この二者はどちらを選択しても蘇我蝦夷(=ソガノエミシ)に結び付く官位名という事が判るのである。つまり蘇我赤兄=蘇我蝦夷で、これは鎌足と赤兄が同一人物である事を悟られぬ為に、記紀が行った小細工の一つともいえるもので、以前触れた様に中臣鎌足が蘇我蝦夷=孝徳天皇を討って得た官位名なのである。もちろん「壬申の乱」は天智政権後継者の一人、大友皇子が追い詰められて自殺した事を以って終わりを告げるのだが、ここで天智天皇と藤原鎌足による日本政権(新羅政権)は、間違いなく崩壊した事になるのである。大友皇子が自殺するまで左大臣となっていた蘇我赤兄(=藤原鎌足)が、戦後何処に流されたかまでは記述に残っていないが、味方を含め数多くの戦死者を出した、日本を二分した「壬申の乱」である以上、戦国期における多くの戦いの結末がそうである様に、天武天皇の最大の敵でもあり、倭国を乗っ取った戦時中における最高責任者ともいえる蘇我赤兄=金庾信将軍が、実際には流罪だけに済まされるとは到底思われないのである。当然処刑されたとするのが妥当と思えるのだが、その真相は記紀に同時掲載された別記事によって明らかにされている。その前に左大臣が蘇我赤兄であれば、大臣としてセットになった右大臣はどこへ行ったの?という話になるが、大どんでん返しの二つ目は更に話が長くなる事から、次回で語らせて頂きたい。
城跡は滋賀県甲賀市土山町頓宮にあって、「東光禅寺」直ぐ東背後の低丘陵上に位置している。城史に関しては頓宮(トングウ)氏が築いた城とされており、氏が音羽野城へ本城を移すまでがこの城の機能していた時期と考えればそれでよいのではないだろうか。ちなみに頓宮氏は服部氏などと同様「甲賀五十三家」の一家で、その一族として黒川氏などが挙げられる。

城跡を訪れるには国道一号線へ進入する事が先決となるが、先にリポート掲載を終えた大野山本城からは更に国道を東へ移動しなければならない。信号「頓宮」まで到達すれば登城ルート図を参考にして41号線へ進路変更、そこからは北進して目印とした「東光禅寺」を目指せばよいが、車は広い寺院駐車場に預ける事になる。そこから寺院敷地内にある集合墓地まで向かい、その右手最奥脇から始まる参拝山道を利用して上れば、直ぐにでも石祠の鎮座する主郭までは辿り着けよう。

登城ルート1登城ルート1 城跡概念図3概念図 虎口地形7 土塁虎口地形

城郭の形態は概念図に示したように忠魂碑の建つ副郭と主郭の二郭で形成されたもので、主郭自体の規模は内部全長約20mと、甲賀に築かれた館城にしては意外に小規模なものである。現状主郭を巡っていたと推察される土塁の二方は明らかに消失しており、その背後に施された高低差約2m程度の土塁が、この城の普請量と規模を物語っている。空堀の類は主郭背後尾根を断つ形の堀切、あるいは南側の武者隠し風横堀と並んで未だ健在でもあるが、その見応えまでは期待しない方がよいかもしれない。後者における横堀に付随する土塁には墓地脇から始まる参拝山道が繋がるものとして、土塁虎口形状になった開口部もあるが、これは恐らく近世に施されたものと自身の眼には映った。

副郭7腰郭より主郭壁 主郭内13主郭内部約20x17m 主郭切岸19主郭北切岸約4m

土塁内壁12土塁内壁高低差約2m 堀切15堀切 南横堀土塁17南横堀土塁

現状(九月訪問)城跡は、郭内に祠や忠魂碑が建つことも理由になるが、郭内部だけに限れば造成整地されて歩き回り易い状況にあり、更に見通しが利く事から残存遺構の判別確認も容易い状況となっている。規模が小さく見学材料には欠けるかもしれないが、土塁、空堀、切岸と城郭を形成するパーツが全て揃っている事、それに圧倒的お手軽感まで加味して城跡を評価するのであれば、自ずとお薦め出来る城跡の一つという事になるだろう。寺院参拝がてらの訪問とするのであれば、訪れ易い事から女性も含めた一般城跡ファンの方々には是非お薦め!ただし遺構の見応えや規模までは問わない事が肝心となるが、、、
城跡は滋賀県甲賀市土山町大野にあって、先にリポート掲載を終えた今宿城とはほど近い距離にあるが、こちらも平城に限りなく近い城跡。城史に関しての詳細は不明であるが、甲賀二十一家の一つ大野家の居城と伝わっている。

城跡を訪れるには、今宿城を訪れた際の信号目印「大野西」の東側にある信号「徳原」で183号線へ進路変更して北進すればよい。橋を渡った付近から城跡までは登城ルート図を拝見して頂ければよいが、画像に示した場所から奥へ進入すれば直ぐにでも土塁西端へ辿り着ける筈である。ただし駐車した場所によっては北から植林地(削平荒地)を通過して向かった方がよいかもしれないが。

登城ルート1登城ルート 城跡概念図3概念図 土塁南内部15 西側土塁南内側

この城跡も今宿城同様、多くの遺構が後世農作地や住宅地などによって消失したものと眼に映ったが、現状お目にかかれる遺構は東西60m以上に渡る土塁及びそれに付随する横堀といったところである。もちろんこの土塁以南に当たる内側部分も若干当時のものが残っているとも窺えたが、郭区画すら読み取る事が出来ない現状、ここまでを当時の遺構と思って見学した方がよいとは思われる。ただしこの唯一残された土塁と横堀は非常に見応えのあるもので、西側が住宅地や道路造成により突然途切れた形にはなっているが、先に触れた様に東西全長は60mにも達するもので、堀底からの最大高低差約3mの鋭角に刻まれた切岸、あるいは西側部分で少し屈曲した横矢構造、それに加えて土橋地形?も窺われるもので、これらは間違いなく見学者の目は楽しませてくれるものと自身の眼には映ったのである。

土塁横堀7 土塁横堀 土塁切岸8 約3m土塁外壁 土塁屈曲部9 土塁横堀横矢地形

土塁上10 土塁上 東端土塁隅部13 土塁空堀東端隅 南側16 南側農作地

現状(九月訪問)城跡は、土塁上はくまなく歩き回る事が可能な上に、東端まで足を延ばせば土塁隅部まで拝める状況となっており、横堀も含めて充分楽しめる状況にあると思って頂いても差し支えないだろう。総合的に城跡をみれば遺構残存度は非常に低い城跡という事にはなろうが、圧倒的お手軽感を加味した上で縄張りは想像だけで楽しむ事を前提とし、遺構見学だけに特化した訪問とするのであれば間違いなくお薦め出来る物件の一つといった事にはなろうか、これだけ長く連続した見応えのある土塁空堀は他では滅多にお目にかかれないだろう。
城跡は滋賀県甲賀市土山町大野にあって、かつての城跡は現状公民館や住宅地の一部、あるいは茶畑と化している。
今回は草津に住む友人と久し振りに会う為、ついでといった形で甲賀市でも国道一号線沿いに築かれた城を訪れる事になったが、流石に国道沿いにある城である、遺構の消失した部分は相当大きいものと目に映った。当然山城と呼べるものではなく、その様相は限りなく平城と想像が付くものである。城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには国道一号線に進入する事が先決となるが、信号「大野西」で一般道へ進路変更すればよい。車は目印とした広い公民館駐車場に預ける事になるが、その直ぐ背後が城跡である。

登城ルート1登城ルート 城跡概念図3概念図 郭3土塁5 郭3の土塁

城郭の形態は遺構が消失した部分が多い事や、密生する雑木竹藪地にあった事から踏破可能な範囲も限られており、アバウトな概念図も描けなかったのだが、現状の目にする事の出来る明瞭な土塁や横堀で、当時は三~四郭が横堀を境として一つの城郭を形成していたものと見受けられた。その中にあって土塁が郭三方を巡っている便宜上の郭3が一番当時の形態が色濃く残る館城に近いもので、本来の甲賀の居館跡といった事になろうが、他は土塁の一部しか現存しておらず、当時の縄張りや形態は全て見学者の想像に委ねられるものと思って頂いた方がよいかもしれない。もちろん空堀もそれぞれの郭境で一部分を目にする事が出来るが、この横堀は明瞭なもので、意外に見応えが感じられた事だけはご報告しておきたい。

郭3内部8 郭3内部 見応えのある横堀12 郭1と郭2土塁間横堀 横堀10 郭2と郭3間横堀

今更城跡の現状を説明するまでもないとは思うが、遺構残存度の一番高い郭3は密生する真竹によって土塁上から郭内部を窺う程度(画像に注目)、自ずと内部の踏破は不能な状況、その土塁東側にある横堀は何とか移動可能であるが、移動可能な範囲は10m程度で当時の深さを体感する程度、といった所が城跡の現状と思って頂ければよいだろう。この城跡の評価は圧倒的お手軽感を加味した上での話になるが、土塁と空堀が最低限拝める事を理由に、国道移動ついでといった形なら決して無駄足には終わらない城跡といった事になろうか、、、