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城跡は兵庫県美方郡香美町村岡区八井谷にあって、標高約540mを測る険峻極まりない山上尾根に位置している。城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには先にリポート掲載を終えた中山城訪問ルートと重なる「道の駅」傍の信号「福岡」を起点とすれば、その所在位置も分かり易いとは思うが、国道9号線「但馬トンネル」を抜けた後、数十m先を左折して集落側の生活道路へ進入する事になる。入山口は登城ルート図に示したが、廃屋となった住宅地の間からで、ここから谷状地形を奥まで進み、左右どちらの尾根でも取り付き易い斜面を選択して直登を開始すればよい。ただしこの直登山ルートは地元の方のアドバイスに従って臨んだ最短で辿り着ける激斜面ルートで、その上り斜面は裸同然で足場もなく、しかもしがみ付く木々も少ない事から、足を滑らせればたちまち谷底までといった具合で、自身非常に身の危険を感じられたルートといった事もあって、これを機に臨む用意のある方は、自身が比較的登山し易く下山し易いと感じられた、砂防ダムを左手に見ながら比較的木々の多い尾根に取り付いて上る、ルート図中の下山ルートでの上り下りをお薦めしたいのである。もちろんそれでも激斜面には変わりないのだが、自身と同様多くの山城を攻略して来られた方であれば、後者のルートであれば容易く上り下り出来る筈である。前者のルートは流石に命の縮まる思いだった事だけはお伝えしておきたいが、取り合えず前者をチョイスされた方には、登り出したら絶対に後には戻れない事を覚悟の上で、全て自己責任において足元や手元には細心の注意を払いながら、決して先を急がずトライして頂きたいのである。ちなみに前者のルートで北端郭までは15分程度の所要時間

登城ルート1登城ルート 城跡概念図3概念図 北出郭群11北出郭群

城郭の形態は枝尾根がない事や、人馬も寄せ付けない郭周囲が険峻極まりない崖状地にある事、あるいは縄張りはこの山上尾根に限られると眼に映った事もあって、ほぼ自身の描いた概念図に近いものと思って頂いても差し支えないと思うが、痩せ尾根上を堀切として刻み、更に急斜面上を段郭群として削り出しただけにしては郭占有面積は比較的大きく、尾根上最高所に位置する主郭の規模は最大幅が8m程度で、全長は30mにも達するものである。結果的に必死の思いで最初に辿り着いた北端郭から南端堀切までの城域は150mには達するものであり、痩せ尾根を削平しただけには決して終わっていないこの様相を窺う限り、縄張りプランも熟慮の上で、しかも本格的普請の下で築かれた山城と言えるのかもしれない。見所遺構は概念図に示した様に、尾根を断つ三箇所で眼に留まる堀切、あるいは段郭群を始めとした郭側壁を形成する切岸といった事になるが、決して見学材料が多い訳でもなく、遺構そのものに必要以上に見応えが感じられる山城ではないと思って頂きたい。この山城の楽しみ方は蔓延る木々が異常に少ない事によって、どこに佇んでも下界の一部が望め、堀切や切岸、更に郭跡を含めたその全体像が窺える事であり、これだけは他の山城では絶対に味わえないもの、もちろんそれによって臨場感も味わえるという事になるが、当時に想いを馳せる事が容易く出来る事に関しては、間違いなく五本の指に入る山城といっても差し支えないものとみた!とにかく自身にとっては主郭へ佇むまでの緊張感もさることながら、その素晴らしい状態も含めて感動以上のものを与えてくれた山城の一つになった事だけは確か。 

北出郭最高所13北出郭群最高所切岸 北出郭下堀切15北出郭下堀切 鞍部郭17鞍部郭約25m 

北段郭群22北段郭群先端 北段郭壁23北段郭群壁岩 主郭24主郭約30mx8m

主郭南堀切26主郭南堀切壁約5m 堀切背後尾根27堀切背後尾根 南端堀切30南端痩せ尾根上堀切

現状(四月訪問)城跡は、先に触れた様に蔓延る木々や下草、更に堆積物も非常に少なく、ほぼフラットに近い郭跡は全て地表が露見した状態にあり、遺構の判別確認も縄張りも掴み易く、滅多に人が訪れない認知度の低い山城としてみなくても、これ以上望みようがない素晴らしいコンディションの下にある、と思って頂いても差し支えないものとみた!城郭としての形態上、見学材料には少し欠けるかもしれないが、その様相は正にこれぞ山城と呼ぶに相応しい城跡!上に挙げた遺構見学以外での楽しめる部分が大きい事を思えば、遺構見学だけに特化しない山城ファンの方に限れば、背中を押してでもお薦めしたい山城の一つといった事にはなるだろう。是非期待して臨んで頂きたいが、自身の中では断崖絶壁上に築かれた天空の城として、間違いなく脳裏に刻まれたのである。    



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城跡は兵庫県美方郡香美町村岡区福岡にあって、福岡集落からは少し南西側へ離れた、麓からの比高100mを測る低丘陵上に位置している。城史に関しては鎌倉期において菟束氏、南北朝期には上野氏、そして戦国期には八木氏と城主の変遷も激しいいが、秀吉による但馬攻略で落城した模様、もちろんそのまま廃城となったものと考えられるが、その後の詳細は不明。

城跡を訪れるには、長い「但馬トンネル」を抜けた後の国道9号線沿いにある、「道の駅」傍の信号「福岡」を目指して車を走らせればよい。この信号からは登城ルート図を参考にして頂ければ良いが、城跡東麓にある登城入山口(画像に注目)直ぐ傍にある、小さな祠「天王権現」を目指せば良いだろう。この脇から始まる山道に任せて上れば、直ぐ植林地化されたかつての棚田跡(推察)が現れるが、その右手側の尾根に沿って上れば、10分もあれば北端堀切付近には辿り着ける筈である。ちなみにこの入山口は麓で農作業中の地元の方から教わったもので、植林地を抜ける最短で辿り着ける藪漕ぎのないルートなので、これを機に訪れる用意のある方は、迷わずこの直登ルートを参考にして臨んで頂きたい。

       登城ルート1登城ルート  城跡概念図3概念図

城郭の形態は尾根上に郭を連結させただけのもので、概念図に描いた様に郭間は全て堀切によって断たれた構造である。当然縄張り変化には富んでおらず、当時における縄張りもほぼ概念図に描いた通りという事になるのだが、堀切間における全長は100mに達するもので、痩せ尾根上を強引に削平したものと察せられるが、郭占有面積は意外に大きいものとなっている。この四箇所に施された堀切が見所遺構となるが、堀切壁となる切岸は4m近くあり、しかもそのほぼ全貌が窺える見応えのあるもので、見学者の期待には充分応えてくれるものと自身の眼には映ったのである。土塁は概念図に描いた郭背後で痕跡程度のもの、そして土塁土橋といった形で南郭でも窺う事が出来るが、見応えまではとても望めないものと思って頂いた方がよいだろう。他で土塁は主郭に沿う形で郭内部の意外な場所(中央)でも眼に留まるが、意外な場所だけに土塁としての機能の想像は少し困難といったところか、切岸はそれぞれの郭側壁で眼にする事が出来るが、場所によっては堀切壁同様、草木の蔓延らない見事なものが拝める筈である。

北端堀切7北端堀切 主郭9主郭全長約40m  主郭内土塁10主郭中央土塁

東切岸9主郭東切岸 主郭背後堀切20南郭背後の堀切約4m高 南郭16南郭

南郭背後堀切20南郭背後の堀切約4m高 南端堀切24南端堀切 縦堀25南端堀切縦堀

現状(四月訪問)城跡は、「数十年前に一度木々の伐採が行われた」、と地元で聞き及んだように、蔓延る木々が少ない事から見通しは利き、歩き回り易く、遺構の判別確認も容易く、それに加えて縄張りも掴み易く、更に主郭に佇めば臨場感も味わえる、訪問者にとっては抜群ともいえる見学環境の下にあると思って頂いてもよいだろう。もちろん現在に至るまでには、地元有志の方々の数回の手入れによるご苦労があったものと察せられるが、訪れる季節によっては主郭一面に蔓延る低い小笹が多少の不安材料といった事になろうか、、、
見学材料が目白押しの城跡とは決して言えないが、土塁、切岸、空堀と山城を形成する三要素が確実に縄張りに取り込まれている事、切岸も含めて空堀遺構に見応えがある事、それにお手軽感まで加味して城跡を評価するのであれば、間違いなくお薦め出来る山城の一つといった事にはなるだろう。直登及び急登を我慢出来るのであれば、一般城跡ファンの方にも充分お薦め出来るのではないだろうか。この地区における今後リポート予定の城跡と併せた同日訪問は是非お薦め!
前回の話の中で、歴代倭速日の一人孝徳天皇=蘇我馬子の皇后となった、間人(ハシヒト)皇女の異名の一つとして物部鎌姫=物部鎌足姫の事に触れたが、今回はそれと同時に蘇我氏が敵対していたとされる?物部氏の謎に迫って行きたい。
物部氏の中において一番有名な人物を上げるとすれば、自ずと聖徳太子の側近であるところの、秦河勝に討たれた物部守屋という事になるが、実際には聖徳太子は蘇我馬子の分身ともいえる人物で、決して側近にはあらず、倭王と皇子の関係にあった事は前回述べた通りである。守屋の父は物部尾輿(物部オコシ)とされるが、物部尾輿の娘は太姫で、この姫は守屋の妹でもある。自ずと守屋と太姫(=布都姫=フツヒメ)は兄妹関係にあるという事も解るが、これは日本書紀に蘇我馬子大臣の妻は守屋の妹であると記載されていることで、間違いのない事実であるといえるが、義兄妹の可能性も否定は出来ない。馬子が歴代秦王である孝徳天皇=蘇我馬子であるとすれば、その皇后は当然太姫という事になるが、この皇后は石上(イソノカミ)夫人ともされており、この石上をシャクカ~ソカと発音すれば蘇我夫人で、自ずと蘇我に繋がる官名と解る。だから物部鎌足姫の官名に蘇我を表す足(ショク~ソカ=蘇我)が含まれているのである。

ここで物部氏が何故モノノベ氏と呼ばれたのかそれを解き明かしてみたいが、物部はフツベとも発音可能で、それに当て字すれば自ずと布都姫のフツで布都部(フツベ~ホツベ~ホツマ)となるが、フツベの「フ」は布袋(ホテイ)さんでもお分かり頂ける様に、当時「ホ」と発音した事から、本来物部はホツベあるいはホツマという国名という事が判るのである。もちろんこの当て字は紛れも無く百済(ホヅ国=ホヅマ~ホツマ)を意味するもので、これが以前「太国」が何処の国を指すのか、何れ紐解いてみたいと語った太(ホツ)国=百済国なのである。つまり太姫は布都姫=物部姫=百済姫の事で、この物部=百済国は記紀編纂者(新羅政権=日本政権=熊襲政権)が最も嫌った国名で、しかもその国名に「部」まであてがい、部民として蔑みたかった百済そのものを指す国名という事になるのである。従来から物部氏は廃仏派とされて来たのだが、これは見当違いも甚だしいもので、ここで教科書で教えられて来た常識や、歴史そのものを改めなければならないようである。やはり倭国そのものが百済で、それに高句麗が常に寄り添い、その頂点に立つ男王が秦王=茅淳王=天王としての倭王で、それが蘇我一族だったのである。
話は意外な展開になって来たが、更に物部氏に関して話を進めれば、布都姫=太姫には物部守屋という兄がいる、この守屋といった単純な名前が一体何を指しているのかといえば、守(モリ)を毛人(モリ=ケイジン)と当て字すれば分かり易いが、これこそケイ人と発音する、新羅政権=日本政権が最も蔑んだ名前の蝦夷(ケイ~カイ)人の事、屋(ヤ)はもちろん国を指すヤ、蝦夷は一般的にはエミシと読むが、素直に読めば間違いなくカイで、訛りを加えて読めばケイ、これで物部守屋の名前を最初から通して漢字に表せば、百済、蝦夷人国という事になる。更にケイ人は軽人=兄人とも当て字可能、これは孝徳天皇が即位する前の皇子名である「軽皇子」、あるいは「大兄皇子」に結び付く官名、ここで物部守屋と蘇我蝦夷は蝦夷(カイ~ケイ=毛=軽=兄)という官名が共通している事が判る。これはつまり百済王である物部守屋は、倭速日こと蘇我馬子に討たれて官名が移動した事を物語るもので、実際に妹の謀によって討たれた事が用明天皇紀には記述されているのである。だから同じ名乗りになるのも当然で、もちろんこの用明天皇(橘豊日)は、以前紐解いた橘(タチバナ)は但馬国(タジバナ=タジマ~テシマ=天之国=テンマ)を指す、孝徳天皇(天万豊日)と全く同じ名乗りの同一人、記紀では安易にも同一人を二人いるかの様に重複して記載しているが、紛れもなく歴代蘇我馬子の事である。ここでもう一度「大兄王」の大兄(タケイ=タケー)に触れておきたいが、この名前は押坂彦人大兄、古人大兄、山背大兄、中大兄など、蘇我氏に関連した皇子に付けられた官名でもあるが、タケーの当て字を太蝦夷(タケイ)とすれば、太(=百済)と軽(=蝦夷国)を指している事が判る。つまり大兄は物部守屋(太蝦夷=太兄)そのものを指しており、これこそ蘇我蝦夷が物部守屋を討って得た百済国と蝦夷国を併せた官名なのである。よって上に挙げた同じ時代に登場する数人の大兄王は、一人の人物を指すものでは決してなく、物部守屋や蘇我一族の事績の反映された、歴代「大兄王」と言う事になるのである。もちろん間違いなく同一人も何人か含まれるという事になるが。

前回、倉山田石川麻呂の娘である遠智娘は、間人皇女と同一人であると述べたが、間人皇女が太姫であるのなら、その父親に当たる倉山田石川麻呂と物部尾輿は自ずと同一人でなければならない筈である。そうなれば倉山田石川麻呂=物部尾輿と同一人とした秦河勝が、自身の息子である守屋を討った事の説明が付かなくなるのだが、守屋を義理の息子の穴穂部皇子とすれば、この皇子が尾輿の実の娘である布都姫=太姫を犯そうとした話も納得出来るし、それをきっかけに馬子(蝦夷)が守屋を討った話も理解出来るし、話の筋は間違いなく通るのである。結果的に守屋は父親に当たる歴代馬子の一人物部尾輿=秦河勝に直接討たれた訳ではなく、蘇我アカイ(=トミノイチイ)によって射殺されたのだが、このアカイを阿蝦夷(アカイ)と当て字すれば、蘇我アカイは間違いなく先に触れた蘇我蝦夷(軽皇子)の事で、自ずと蝦夷が守屋を討った話が間違いなかった事が判るのである。歴代馬子や蝦夷、あるいは当て字違いの同じ官名を持つ人物や皇子が何人も登場する事によって、この辺りの情報は話が色々と交錯しており、日本のルーツを語る上での一番大切な部分を、複雑且つ解り辛くしているのだが、これも記紀が百済国(=物部)と蘇我氏の結び付きを隠す為、巧妙に仕組んだ事と捉えれば、それで充分納得は出来るのである。


城跡は京都府舞鶴市小倉にあって、標高約110mの山頂に位置している。城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには国道27号線へ進入する事が先決となるが、随分前にリポート掲載を終えた泉源寺金比羅城が国道や農作地を隔てた直ぐ真北側にある事から、この城を既に訪れた方には所在位置も分かり易いとは思われる。「泉源寺」の信号西側にある三叉路で進路変更して登城取り付き口まで向かえばよいが、某社の広い駐車場を右手に掠めて、更に奥にある廃屋敷地内を通過させて頂く事になる。そこから上り易い斜面を探しての直登となるが、山頂までは20分かかる事は念頭において頂きたい。

登城ルート1登城ルート 城跡概念図3概念図 空堀土橋痕5空堀土橋痕

この山城は自身が窺う限り、物見か狼煙台機能しか想像の付かないもので、山上郭群は現状ほぼ自然地形に近いが、段差程度で郭区画された二郭構造の山城と思って頂いても差し支えないだろう。訪問者の誰からも「えーこれだけ?」といった言葉が発せられるような、この地を城跡と認識して臨まない限り、ただ山頂を極めただけに終わる山城と自身の眼には映ったのである。もちろん京都府遺跡分布図の中にマーキングされた地がこの山頂に当たるのだが、それは何度も地図上で誤認がなかったか確認したほどである。結果的に直登道中における山頂主郭直ぐ手前斜面で眼に留まった、痕跡程度の土橋地形から落ち込む僅かな縦堀地形(画像に注目)で、ここを城跡として確認するしかなかったのだが、明瞭な切岸も未確認、更に北と東側の痩せ尾根も踏破したのだが、それらしい遺構とは最後まで廻り合う事が叶わなかった。恐らく縄張りも城域も山頂だけに限られる城とは思うのだが、これも一つの城郭としての形態と思えばそれでよいのかもしれない、、、自ずと今まで触れて来ただけの見学材料で、お薦め出来る山城とは間違ってもいえないが、城跡を評価するのであれば、無駄足を承知の上で臨む分には、達成感と山城ロマンだけには浸る事が出来る事を理由に、楚々とした山城を好まれるマニア限定の城という事になるのではないだろうか。

縦堀痕7僅かに縦堀痕 山上主郭9山上二郭構造  12山頂主郭


城跡は京都府舞鶴市森にあって、既にリポート掲載を終えた森城からみて、西側に聳える山の標高約250m(比高200m)を測る、険峻極まりない山頂に位置しており、その少し造成整地された感のある主郭には、なぜだか判らないがひっそりと石碑が佇んでいた。城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには府道28号線へ進入する事が先決となるが、森城を既に訪問された方なら「エディオン」のある交差点で進路変更する事もお分かり頂けるだろう。直登取り付き口となる場所は画像と共に登城ルート図中に示したが、府営団地の隅からで、ここには「山に入るな!」といった看板がある様に、その植林地の中には多くのゴミが捨てられていた。自身は尾根に取り付き易いと思い、直ぐ東側にある配水施設まで上って、そこから山頂を目指す予定にしていたのだが、その上り口となるフェンスには鍵が施錠されており、止む無く先に触れた場所を登城スタート地点とした。地図上の等高線でもお分かり頂けるように、山頂を目指すにはどこから取り付いても激斜面登山は余儀なくされるのだが、ルート図に描いた自身が上り下りした下山ルートが比較的上り易い様に感じられた事から、枯れた沢筋を少し奥に入り、右手尾根に取り付き上る事をお勧めしたい。藪漕ぎはないもののかなり厳しい登山が待ち受けているが、30分程度で辿り着ける筈である。

登城ルート1登城ルート 城跡概念図3概念図 北端堀切6北端堀切

城郭の形態は概念図に描いた様に、急斜面上に狭小段郭群や主郭に帯郭は付随するものの、ほぼ主要二郭で形成されたシンプルな縄張りとなっており、山上郭群における規模は全長約70m前後あり、決して痩せ尾根を刻んで削平しただけの城郭には終わっておらず、充分本格的普請の感じられるものとなっている。この山城も先にリポート掲載を終えた行永青山城同様、畝状空堀群を特長とするものであるが、連続して刻まれた数は少ないものの、木々の隙間からその全体像が僅かに窺える事や、下草が無駄に蔓延らず判別し易い事もあって、間違いなく期待には応えてくれそうに思えたのである。空堀は直登道中において最初に忽然と現れる堀切、主郭の土塁背後に施された明瞭且つ長い縦堀を伴う堀切、更にその背後の自然地形に近い副郭背後の土橋付堀切といった具合に、それぞれの機能が異なる事も理由になるが、自身としては縄張りプランを想像するだけで間違いなく楽しめたのである。他では斜面に直接刻まれた形の縦堀も眼に留まったが、こんな場所になぜ?といった具合に、急斜面上も更に踏破探索すれば数本の縦堀と遭遇出来たのかもしれない、、、遺構が目白押しとは言わないまでも、とにかく次から次へと目を楽しませてくれる山城と自身の眼には映ったのである。もちろん空堀全てに見応えが感じられる事は言うまでもないが、切岸なども高低差には欠けるものの、段郭群の境や二段の帯郭側壁で鋭角に刻まれたものを拝める筈である。土塁も先に触れた主郭背後や副郭背後で、直ぐそれと判るものを眼にする事が出来るが、規模や険峻な地に築かれた山城としての縄張りプランを考慮すれば、見学材料はこれだけで充分とも思えたのである。
舞鶴に築かれた山城は、狼煙台規模や郭跡のみといったところも多く、取り付く場所もないほど藪に覆われ、状態の悪さでも期待を裏切られる事が多いのだが、行永青山城も含めて縄張り妙味に富んだ山城もまだまだ残っており、まだ未訪となっている城跡にも僅かながら期待したいところではある。

北段郭群8北段郭群 主郭内17主郭石碑 主郭南西側18主郭南西側 

主郭土塁跡20土塁 中央堀切21中央堀切 縦堀 西土橋付堀切25西端土橋堀切

畝状空堀群29畝状空堀群 28畝状空堀群 急斜面上の縦堀31急斜面上の縦堀

現状(四月訪問)城跡は、それなりに藪化は進行しており見通しは利き難いが、踏破探索や遺構の判別確認に支障を来たすまでには至っておらず、遺構見学としては充分楽しめるコンディションの下にあると思って頂いてもよいだろう。ただしこれから若葉の生茂る季節となれば想像も付かないのだが、他の舞鶴に築かれた城同様、訪問時期としては冬季あるいはこれから夏季までといった処になるのかもしれない。この山城に対しては全くお手軽感は感じられず、しかも厳しい激斜面直登が待ち構えている事を思えば、一般城跡ファンの方々に対しては、間違ってもお薦めとは言い難いが、山城ファンを自認する方々には、上に挙げた見応えのある遺構の数々や、達成感や山城ロマンまで味わえる事を理由にすれば、是非期待して臨んで頂きたいと思えたのである。個人的には行永青山城と併せた同日訪問は、背中を押してでもお薦めしたいのだが、、、