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前回は仁徳天皇(大雀命)の都とされる「難波の高津宮」は、大阪ではなく讃岐の高松にあった事を地名から紐解き、更に倭国の宗主国であった高句麗本国は、スサノオやヤマトタケルの統治した九州を経て、四国まで領土を拡大していた事も判明したが、仁徳天皇の別称でもある「聖帝」の聖をタカシと読めばタカシ帝、即ち高之王=高津王で、ここでも仁徳天皇は高句麗王であった事が解るのである。これは教科書や史書では絶対に教えてくれない事でもあるが、もちろん今まで発刊された多くの歴史本にも書かれた事実はない。スサノオが山上王位宮として高句麗王の皇統譜に載せられている以上、スサノオの異名でもある新羅王脱解(タカ=高)、あるいは百済皇子とされる温羅(ウラ)が物語るように、自ずと倭国王は朝鮮を分国として、三国に共通する王であった事も理解出来るのである。それなら高句麗王であった仁徳天皇も、自ずと高句麗皇統譜上に載せられているのではないかといった疑問も生じようが、結論から言えば実際には載っているのである。これは次の機会に語らせて頂くが、前回倭国王は仁徳天皇、即ち倭王讃から始まったと述べたが、これは中国側に倭王讃を含めた五人の倭王が朝貢した事実から、日本は倭国と呼ばれた事が解っただけで、実際にはここで初めて倭国という名が登場するのである。実は「倭王讃」の前には「倭王旨」なる人物が存在した事も判明しているのだが、これは記紀の神功皇后紀に載せられているように、百済より神功皇后(壱與)に献上された七枝刀(七支刀)には、268年の銘(369年説もあり)が刻まれており、倭王旨の為に造ったものであると銘文に刻まれていた事から発覚したもので、壱與は老卑弥呼の亡くなった247年前後に即位(13歳)したと記録にある以上、やはり造られた年は268年が正解という事になるだろう。369年説では壱與は135歳にもなっており、話が全く成立しないし、壱與は生贄となって既に亡くなっているのである。

倭王讃に至るまでの邪馬台国=倭国スサノオから仁徳天皇に至るまでの倭国

この実在した倭王旨の「旨」をウマと発音すれば、自ずと大国(ウマ=オオマ)=倭国(オオマ)に繋がり、旨は大国主(ウマ王=オオクニヌシ=倭国王)を指した官名であるとも理解出来るが、更にこの「ウマ」はこれから約四百年後の蘇我馬子のウマであった事も解るし、この時代から既に旨は馬=大国=倭国で、倭王旨は時代的(老卑弥呼の亡くなった247年以降)には仁徳天皇の前の天皇、即ち父親である応神天皇と考えられるのである。ただしこれには二通りの銘文解釈があって、「旨」をムネと読んだ場合では、ウキペディアにもその解釈の違いが記載されているように、全く「倭王旨」は成立しないのである。自身は倭国王旨(ウマ)が正解であると受け止めたのだが、、、自身の見解では高句麗、百済、新羅三国を統一した王が倭王と呼ぶに相応しい人物と思うのだが、そうなればヤマトタケル=景行天皇が最初の倭王で、その後に続いた旨、讃、珍、済、興、武までが、確かに存在した倭王といえるのではないだろうか。つまり倭王は五人ではなく、実際には七人いた事になるのである。

今までの事を踏まえれば、仁徳天皇の統治した倭国としての領土は九州から四国までで、陵墓としては世界一の規模を誇る仁徳天皇稜は、明らかにその後身が造ったものと解り、その被葬者は仁徳天皇でなかった事は明白!実際には未だ特定されていないのであるが、亡骸の入った陵墓でない事が解っているにも拘らず、未だ宮内庁によって正されていないのが現実なのである。築造年代が少し後になる以上、仁徳天皇自身が埋葬された墓ではない事は誰でも解るが、これをヤマトタケルの白鳥陵と同様に、仁徳天皇の偉業を称えた上でのモニュメントとすれば、充分納得も出来るし、被葬者がいない以上誰の墓でも差し支えないと思えるのである。むしろ世界一ともいえる規模の稜を造成した、倭国王の権勢が称えられるべき事で、これは当時これだけの稜を造成する技術と労働力が確かにあったという証明にも繋がるのである。だとすれば本来の埋葬された陵墓は一体どこにあるのか?といった事になるが、これは確かな場所は記紀にも記述がないので、決して断定は出来ないのだが、今まで自身が研究した結果では、瀬戸内海に浮かぶ大三島という事になろうか、これからその根拠を説明させて頂くが、ここには大山祇(オオヤマズミ)神社が鎮座している。この大山祇は古代「オ」は「ウ」と読まれた事からウサギとも読めるが、これは大讃王(ウサンギ=オオサヌキ)=倭讃王と当て字変換が可能、更に仁徳天皇の諡号である大雀(オオサザキ=オオジャク~ウザク)はウサギとも読める。同様に大三島(オオミシマ)もウサ之(シ)国(マ)=大讃(ウサ)ノ国と読めるが、全て仁徳天皇の諡号「大雀」、あるいは倭王讃に繋がっているのである。つまりウサギの祭られる神社は倭王讃=大山祇が祭られている事になり、これだけで充分大三島と仁徳天皇との繋がりが解るし、都のあった讃岐からは海洋民族なら船で直ぐの距離にある、大三島が実際に埋葬された場所と想像が付くのである。しかも神社背後に聳える鷲ヶ頭(ワシガトウ)山は、昔「神ノ山」と呼ばれた神聖な山と伝わっており、この鷲ヶ頭を「ワシガカシラ」と読めば、西日本で自分(私)の事を「わし」と発する、「わしの頭領」=「私の王」という意になり、それは倭津ノ頭(ワシノカシラ)=イツノカシラにも繋がるのである。つまり鷲ヶ頭は倭之王(倭の王=イツキ=イチキ)山をも指し示しているのである。だから神ノ山と呼ばれた事も理解出来るし、更にこの山は数代目卑弥呼が祭った、斎(イツキ)山であった事も解るのである。もちろんこの地において、仁徳天皇稜に相応しい規模を持つ古墳が発掘された事実は現在に至るまでなく、完全な自身による推論という事にはなるが、、、ただ今いえるのは、仁徳天皇が応神天皇の跡を継いだ以上次の八幡は彼で、八幡が邪馬(シバ=ヤマ)神の化身である以上、間違いなく山に葬られたと考えるべきなのである。つまり神ノ山と呼ばれた鷲ヶ頭山=倭王山=斎山に葬られたとするのが妥当といえるのである。スサノオ(邪馬神王=山上王)が山に葬られたように、、、
この天皇に関してはまだまだ語り足りない部分が多く、それは次回でという事にさせて頂きたい。

            大三島にある大山祇神社大三島 大山祇神社



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城跡は京都府舞鶴市吉野大師山にあって、先にリポート掲載を終えた朝来中ユリ城からみれば、道路を挟んだ南側にあり、丘陵上の先端に位置している。城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには、朝来中ユリ城を起点とすれば一目瞭然の位置にある事から、訪問ルートの説明は割愛させて頂くが、登城ルート図中に示した辺りから丘陵上に向いて直登を敢行すれば、5分内で辿り着ける筈である。ただしある程度の藪漕ぎは覚悟しなくてはならないが、、、

        登城ルート1登城ルート 城跡概念図3概念図

この山城は丘陵先端部が作業所所有地であるのか、相当削り取られ消失しており、縄張りを含めた当時の祖形は、全て見学者の想像に委ねられるものと思って頂いた方がよいだろう。当然どこまでがかつての主郭か見当も付かない状況にあるが、取り敢えず先端部における消失部分の大きい堀切以南が主郭に当たると自分の眼には映った。この縦堀を伴う明瞭な堀切が立ち上がった先には、土塁囲みの内部約4m四方の郭があるが、これは最初に眼に留まった時は、「これは凄い!」と興奮は隠せなかったのだが、同じ様な形の土塁郭が丘陵上に連続して構築されているところをみると、どうやら戦時中におけるトーチカ(砲台)跡の様な気がしたのである、、、もちろん舞鶴の至る所に当時塹壕が築かれた事は、以前地元の方から聞かされていた事もあり、直ぐにそれではないか?と分かったのだが、現状余りにも城郭遺構としては縄張りに馴染んでおり、自身としては城郭遺構(見張台)と思いたいのだが nnnn残念! まず間違いはないだろう。よって遺構残存度は極めて低い城跡という事になるが、唯一遺された堀切だけが当時の遺構、と思って頂ければよいのではないだろうか、ただ市に問い合わせ追跡調査を行った訳ではないので、これは独自における一方的な判断と思って頂きたいが、、、。

残存郭跡7残存郭跡 砲台土塁跡13土塁内部4m四方 12砲台土塁虎口か

堀切15堀切 縦堀17縦堀 堀切壁18堀切壁

現状(六月訪問)城跡の藪化は相当進行しているものの、取り敢えず堀切の全体像は窺える状況にある。とは言っても、遺構のほとんどが消失した状況にある事から、見学の対象となる城郭遺構は堀切(見応えあり!)だけに限られたものになるが、戦時中の土塁で構築された砲台がどのような形で、どういった場所に築かれていたのか、興味のある方が訪れる分には一見の価値とみた!これを機に訪れる用意のある方には、是非この言葉を目安にして臨んで頂きたい。
城跡は京都府舞鶴市朝来中にあって、その郭転用地ともいえる丘陵上には稲荷神社が鎮座している。城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには、国道27号線を経由して772号線へ進入する事が先決となるが、「舞鶴高専」付近まで到達すれば登城ルート図を拝見して頂ければよいだろう。大きな変則交差点を過ぎた後に左折して、目印となる稲荷神社参拝口まで向かえばよいが、石段を登れば直ぐに主郭(境内)へ辿り着けよう。ちなみにこの付近に充分駐車スペースは確保可能

登城ルート1登城ルート 城跡概念図3概念図 主郭9主郭 奥側

城跡の形態は、アバウトに描いた概念図を拝見して頂ければそれなりに想像は付くとは思うが、祠の佇む辺りが段差程度で少し高く、全長20mに収まるほぼ二郭構造の城郭と思って頂ければそれでよいだろう。この物見程度の小さな城郭にまさか堀切が施されているとは思っても見なかったが、主郭背後に尾根を断つ形できっちりと残っている。その堀切の片側は縦堀となっており、この地より更に北斜面を上った地にある、稲荷神社奥社へ繋がる山道となっているが、直ぐそれと分かる明瞭なものである。現状神社敷地はほぼフラットに造成整地されており、その側壁に切岸跡までは見受けられなかったが、当時における祖形の想像も含めて、見たままを楽しめばそれでよいのではないだろうか、、、結果的に見学材料は堀切とかつての郭跡といっただけになるが、圧倒的お手軽感を含めた上で城跡を個人的に評価するのであれば、これからリポート掲載予定にある、この地域における山城巡りの一環とすれば充分訪れる理由にもなり、それなりに楽しめる城跡といった事になろうか。

主郭西側9主郭 堀切12堀切 縦堀13縦堀~山道


城跡は滋賀県甲賀市甲南町下馬杉にあって、先にリポート掲載を終えた谷出城とは南北に渡る丘陵上を共有しており、便宜上の谷出城詰城を最高所として、北尾根に展開される部分における縄張りが、この城郭の本質と考えられる。城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには自ずと谷出城を起点として頂く事になるが、その実態も判らず訪れた自身にとっては、両城がこれだけ隣接した状況にあるとは思ってもおらず、谷出城から一旦下山して登城ルート図における経路で向かったのだが、これから訪れる用意のある方には、山城巡りとしての効率を思えば、谷出城詰城から西斜面を降りて向かわれる事をお勧めしたい。自ずと西出城の背後に展開される南東郭群から、北に位置する主郭に向いての踏破という形になるが、自身が訪れた登城道を逆に辿れば、駐車地点までは難なく戻れる筈である。ちなみに自身における登城ルートは、地元生活道路(画像に注目)を経由したルートでもあるが、堀切までは山道で直ぐの距離にある事だけはお伝えしておきたい。

      登城ルート1西出城登城ルート 城跡概念図3概念図 (2)

城跡の形態は概念図を参考にして頂ければよいが、概念図に描き切れなかった北痩せ尾根上にも、郭境に切岸跡の残る小郭が北端尾根まで満遍なく展開されていた事や、規模の大きい主郭を含め丘陵上に展開される本郭群は、ほぼ三ブロックで形成された構造上、自身の眼には城域は軽く300mに達する大型の山城と映ったのである。この城跡も今までリポートして来た馬杉地区に築かれた城同様、見る限り甲賀における築城基本形(土塁の廻る方形居館)からは逸脱したものであり、主郭における土塁は一方(南側)を残して全て消失したものとも察せられた。このほぼフラットに近い郭跡や、いきなり端を削り落とされた大土塁を窺うだけで、植林地化される前は農作地であった事は想像が付くし、当時の祖形は全て見学者の想像に委ねられるように感じられたのである。その中にあっての見所遺構は、概念図に示した通りと思って頂いてもよいとは思われるが、高低差約5mの薬研堀に近い鋭角に削り落とされた北堀切、主郭背後のそそりたつ大土塁、郭壁随所で窺われる鋭角に刻まれた切岸などは見応えもあり、山城に近いユニークな縄張りと共に、充分見学者の期待には応えてくれるだろう。

北堀切10堀切高低差約5m 主郭12主郭約40mx30m 大土塁18 大土塁壁約4m

南中郭群24南郭群 南土塁壇26南土塁 中央堀切29中央堀切

南郭群切岸34南端郭切岸 南端郭切岸36南端郭と帯郭  南東堀切39南端堀切

現状(五月訪問)城跡は、主郭は先に触れたように植林地化されている事によって歩き廻り易い状況にあるが、他は青竹も多く蔓延り、藪化もそれなりに進行している。ただし郭移動も含めて見学に差し障るまでには至っておらず、見通しが利く事から遺構の判別確認も容易く、充分楽しめる状況にあると思って頂いてもよいだろう。結果的に主郭だけに関して言えば、遺構残存度の非常に低い城跡という事になるが、他の部分に関してはそれほどでもないと自身の眼に映った事から、城跡を個人的に評価するのであれば、先に挙げた見学の対象となる見応えのある遺構群、縄張りを究める楽しさ、踏破探索する楽しさ、それに道路沿いから数秒で堀切に辿り着ける圧倒的お手軽感まで加味すれば、自ずと是非お薦め出来る城跡の一つといった事にはなるだろう。もちろん先にリポート掲載を終えた小池城、谷出城と三城併せた同日訪問も是非お薦め!
今回は応神天皇に続く、仁徳天皇の謎に迫ってみたいが、もちろんこの天皇は応神天皇の皇子の一人で、「大雀(オホサザキ)命」といった諡号を持っている。即位後には大隅宮から難波の高津宮に都を移したとされているが、ここで間違って欲しくないのは、この遷都前の大隅宮は鹿児島の明(アカル)宮の事で、父親である応神天皇の都を指したものである。一般的には仁徳天皇稜が造営されている事もあってか、当然のように難波の高津宮は大阪にあったものとされているが、鹿児島から大阪にいきなりの引っ越しは考えられないのである。当然その根拠を述べなければ話も進まないのだが、応神天皇(正八幡)は名替えによって、先代の景行天皇(数代目八幡=ヤマトタケル)の跡を継いでいるが、まだ九州(筑紫王)を統一したばかりの王で、九州王がいきなり中国地方や四国を飛ばして、大阪に遷都は絶対に有り得ない話なのである。それでは一体その都はどこにあったのか?という事になるが、これが謎とされる部分で話の肝になる部分でもある。

この王は「宋書倭国伝」で、421年に倭王として最初に朝貢したとされる人物で、倭王「讃」と記録されているが、425年にも同じ様に使節を派遣して朝貢し、上表文で「宋」の国に対して任官を求めていた事が分かっている。結果的に認可されたかどうかまでは記述にないが、倭の五王の始まりは、今まで色んな書物に目を通した限り、「讃」に比定されるのは仁徳天皇といった事が定説となっている。「讃」はそのまま「サン=サ」、あるいは「サヌ」と読めばよいとは思われるが、倭王讃である以上、王をキと読めば讃王(=サヌキ)と呼ばれた事も分かるが、これを当て字変換すれば讃岐(サヌキ=サキ)といった事にもなる。つまり讃岐(サヌキ)は四国にある香川県の事で、諡号となる大雀(オホサザキ)を単純にオオサキと読めば、紛れもなく倭讃王(オオサキ)に結び付く、つまり大雀=倭讃王が成立するのである。これとは別に大(オホ=オオ)を淡(オオ=アハァ)と当て字すれば阿波(アハ=アワ)に結び付くが、これは隣の県である徳島県という事になるし、鳴門海峡を隔てたそこには、倭(オオ)の語源とも言える淡路島もある。しかも徳島の古名は渭津=猪津(イツ)で、これは明らかに倭津(イツ)と当て字可能、結果的に倭王讃=仁徳天皇=大雀(オホサキ)=阿波讃岐(オホサヌキ)=倭讃岐という図式が完全なものとなったが、宋の国からみて倭王といった確かな称号がある以上、先代が統一した九州を始めとして、倭王讃は四国までも統一していたのである。よって結論を申し上げれば、「難波の高津宮」とされるものは、古代に「多加津=タカツ=高津」と当て字された讃岐(香川県)にある「高松」のことで、更にこのタカマツを当て字変換すれば高国(タカマ)津という事になり、市内には倭家(オウチ)を指し示す丸の内(マルノウチ=ワノウチ=オウチ)の地名も未だ残っている。もちろん丸(マル)はワの同義語でワと読めるし、結果的に高国を指すこの地は、高句麗本国を指す地名という事にもなるが、以前から述べているように、倭国自体が高句麗を指し示したものではなく、スサノオを代表とする高麗人(コグリ)の生んだ国の後身が倭国(=大国)なのである。この時点では中国人も高句麗が倭国そのものであるといった事は、全く理解していなかったと思えるが、、、倭王の称号を先代から受け継いだ以上、仁徳天皇も八幡(ヤマン=ハチマン)であり、武内宿根という事も分かるが、四国にはそれにまつわる地名が今でも数え切れないほど多く残っている。以前ヤマト(大和)は邪馬台(ヤマタイ=ヤマト)が語源と述べた事があったが、宇和(ウワ=大倭=大和)島もそれで、四万十(シマト=邪馬台=大和)川もその名残と思って頂ければよいと思われる。もちろん愛媛県には八幡そのものの地名「八幡浜」もあるし、「大洲」の地名は八幡の代名詞ともいえるヤマトタケル(オウス命)が語源とも考えられるのである。

      仁徳天皇の都「難波の高津宮」高松=古代の多加津

これで仁徳天皇の都がどこにあったのかお分かり頂けたとは思うが、これだけでは「難波(ナニワ)は大阪ではないのか?」といった事になろう。確かに難波(ナンバ=ナニワ)と呼ばれる地名は大阪にあるのだが、難(ナン)はニクイの「ニ」でもあり、これをニバ=ニワ(難波)と発音すれば、当て字として丹羽(ニバ=ニワ)が成立する。これを素直に読めば正しくタンバ(丹波=但馬=丹之国)そのもの、つまり難波(ニバ)=丹波(ニバ)=倭国(ニバ)で、難波は倭国の当て字という事が解るのである。だから難波王(丹波王)は倭国王であり、それは倭王讃という事になるし、全国に散らばる丹波(タンバ)さんや丹羽(ニワ)さん、あるいは地名としての多摩(タマ)や但馬は、間違いなく倭国から派生した名前という事が解るのである。記紀編纂者(新羅人)はそれを充分理解していながら、出来るだけ仁徳天皇の都は知られたくなかったのだろう、敢えて「大雀」といった単純極まりない名前を用い、更にスズメ=雀といった少し蔑んだ名前をわざわざ付けた上で、統治した国をあやふやにしているのである。本来なら官名としての新羅や百済、あるいは高句麗の名乗りがあっても当然なのである。これだけで新羅にとって倭国は眼の上のコブ的存在であった事が分かるが、朝貢の義務付けや、おまけに人質まで取られては無理のない話であろう。ただし記紀編纂者にも、歴史を捏造してはならない良心はあったとみえて、讃岐王だけはそのまま残したのである。もちろん倭国としての宗主国は高句麗(高国=コマ)という事になるが、土佐の高知もタカシあるいはタカツで、市内にある高須(タカス)の地名が、ここが古代高国であった事実を物語っている。ちなみに土佐の土は「ハ」と読む事から、百済(ハゼ=ハセ)が語源という事が解るが、つまり前回述べたように、国境のない時代高句麗は百済と常に共存していたのである。だから「白村江の戦い」では、百済と高句麗は同時に滅んだし、もっと厳密に言えば四国(シコク=シマ)は邪国(シマ=邪馬=ヤマン)と当て字も可能で、これは正しく八幡(ヤマン)で倭国そのもの!世間の一部でまことしやかに囁かれている、邪馬台国は四国にあった!という説は、決して間違ってはいなかったのである。ただし、魏志倭人伝に登場する邪馬台国は間違いなく鹿児島!恐らく「空海」も既にそれは知っていたのだろう、、、。次回は更にこの天皇の謎に迫っていきたい。