FC2ブログ
城跡は京都府舞鶴市下福井にあって、「和泉神社」の直ぐ西背後に迫る低丘陵上先端に位置している。城史に関しての詳細は不明であるが、一色氏のお膝元にある事を思えば、この地域に数多く築かれた支城の一つと言ってもよいのかもしれない。

城跡を訪れるには、国道175号線に進入する事が先決となるが、「下福井」の信号まで到達すれば登城ルート図を参考にして、直登取り付き口となる和泉神社を目指せばよいだろう。神社拝殿背後から左手斜面に取り付いてそのまま山上を目指せば、藪漕ぎもなく10分内で辿り着けよう。

      登城ルート1福井北城登城ルート 城跡概念図3概念図  (2)

この城跡は現状藪化も含めた地表風化は相当激しく、当時の祖形や確かな縄張りは想像を余儀なくされる状況にあるのだが、1m程度の高低差で郭境が仕切られた副郭と、主郭に付随する腰郭の三郭構造と見受けられるものである。その形態はアバウトに描かざるを得なかった概念図を拝見して、それから少し想像を膨らませて頂きたいが、空堀の類は北背後尾根を断つ形の、両サイドが縦堀に繋がる土橋を伴う二重堀切、その縦堀に付随する土塁を間に挟んだ形の二連の縦堀東斜面側に単独で刻まれた数本の縦堀と、単純な縄張りプランにあっては、この急斜面上に刻まれた縦堀群が見学の全てとなる城跡と自身の眼には映った。特に本郭群の背後尾根を断つ大土塁を間に挟んだ形の二重堀切は、非常に見応えのあるもので、間違いなく見学者の期待には応えてくれるだろう。もちろん藪化の進行した東斜面上に刻まれた縦堀なども、直ぐそれと分かる判別し易いものである。自身は本郭群斜面は取り敢えず一周したが、藪化の更に進行した西斜面では確認出来なかった。当然見逃した可能性はあるが、畝状空堀群が施されていなかった以上、この山城に多くの期待は出来難いだろう。明瞭な切岸は郭側壁を形成する本郭群の南側(画像に注目)、あるいは腰郭背後で確認出来るが、これだけ進行した地表風化を思えば、判別確認出来るだけましといったところか、、、

南縦堀8南縦堀 南切岸11主郭南切岸  腰郭9腰郭

主郭11主郭 副郭12北副郭 二重堀切113北土橋二重堀切1

二重堀切218土橋堀切2 二連縦堀20二連縦堀 東縦堀22縦堀

現状(十月訪問)城跡は、先に触れた様に藪化も地表風化も相当進行した状況にあるが、全てに渡ってその状態にある訳ではなく、特別踏破探索に難渋する訳でもなく、概念図に示したまでの残存遺構は、充分判別確認可能な状況にあると思って頂いても差し支えないだろう。ただし主郭内に限っては見通しも利かず、内部の荒廃も著しく、全体的に主郭中心部から斜面に向いて緩い傾斜地形となっており、形状や郭区画も掴めず、更に臨場感も味わえない状況にあると思って頂きたい。これらを踏まえた上で、城跡を個人的に評価するのであれば、数世紀に及ぶ風化というハンデはあるものの、空堀群における遺構の醍醐味、それにお手軽感まで加味すれば、自ずとお薦め出来る城跡の一つといった事にはなるだろう。この後登城リポート予定にある福井城、下福井城の三城併せた同日訪問は、山城巡りとしての効率は非常に良いものであり、間違いなく是非お薦めといったところか。
スポンサーサイト
この允恭(インギョウ)天皇は、歴代天皇における皇統譜上では反正天皇=倭王済の後を受けた天皇という事になっているが、自身にとっては間違いなく即位もしていない?マークの付く架空天皇の一人である。これからその理由を語らせて頂く事になるが、その諡号は雄朝津間稚子宿禰(オアサヅマワクゴノスクネ)命となっている。この諡号の最後に付いた「宿禰」が最初に登場したのは、景行記あるいは同時存在である神功皇后記における武内宿禰からで、この時点での武内宿禰はヤマトタケルと同一人で、倭王が名乗る事の出来る最高位の官名である、といった事は以前述べた通りである。ただしこの官名は記紀に記されている限り、新羅、百済、高句麗王を従えた三国王で、しかも倭王でもあった仁徳天皇=広開土大王から履中天皇までで、皇統が明らかに高句麗から百済へと替わった事が分かる、反正天皇(本来は百済王)の後に続いたのは、間違いなくその皇子に該当する倭王興(キョウ、コウ)で、この允恭天皇は仁徳天皇の第四皇子とされており、中国側の宋書における血縁関係からみても分かるように、それは明らか!当然允恭天皇は倭王=天皇にはあらず、ただの高句麗王であった事は明白!もちろん分国としての朝鮮高句麗は長寿王が後を継いでいるのだが、その高句麗本国を継いだのは宿禰の官名を持つ允恭天皇で、記紀にその事跡が語られている事から察すれば、当然実在の人物である事もはっきりしている。ただし「興」が父親である倭王「済」の後を引き継いだ以上、允恭天皇が天皇位に就ける筈もなく、この理由だけで間違いなく允恭天皇が即位もしていない架空天皇という事が分かるのである。つまり以前から述べている様に、高句麗は倭王の称号を反正天皇から既に奪われていたのである。
諡号に宿禰という名を持つ天皇は、允恭天皇以外天皇皇統譜上では一切見受けられない、これは何を指し示しているかといえば、この宿禰の官名は高句麗では最高位の官名になるが、倭国における官名としては下位にランクされるもので、天皇諡号には間違いなく相応しくない名前という事になるのである。その証拠として、これから数百年後における天武天皇政権時においては、「真人」を頂点として次に「阿臣」、その次の三番目にやっと宿禰はランクされているのである。一部では允恭天皇が倭王済に該当する説もある様だが、倭王済は反正(ホゼイ=百済)の天皇名が証明してくれている様に、允恭天皇と同一人では絶対に有り得ないのである。

記紀における允恭記においては、この天皇は病気がちで、更に健康を理由に天皇としての即位を再三拒んだ事も記載されているが、これも?マークの付くもので、この辺りより記紀においては、高句麗王位を巡ってのクーデター(内乱)とも察せられる玉田宿禰を誅したり、更に皇室内における近親相姦が発覚したりと、天皇の歴史に傷がつくだけで、そこまで描かなくてもよいのでは?、と思えるような記事が数多く記載され、更に倭王を中傷した記事や無慈悲な非道振りも強調され、それが更に倭王武に至るまでエスカレートして行くのであるが、ここから突然変化していく記紀編纂者(新羅側の人間)の意図が、少しだけ見え隠れしている様にも窺えるのである。
つまり記紀編纂の開始された時代(七世紀)に近付くほど、編纂者にとっては倭国に常に付随した新羅における立場も、倭国の属国として数百年歩んで来た歴史も明確になり、最大の敵国であった倭国を新羅の上に位置付ける事は、白村江の戦いで倭国(百済と高句麗連合軍)を滅ぼし、その勝者となった新羅にとってはプライドが許さなかったし、それにはとても耐えられなかったからといった事になるのかも知れない、、、当然勝てば官軍で、新羅はこの戦争だけに限れば間違いなく勝者なのである。記紀には実際の出来事であったか否かまでは知る術もないが、倭王興から倭王武に至るまでは殺戮の歴史そのものが描かれており、兄弟同士での殺しあい、更に些細な事での誅罰、あるいは姻戚関係にあった人々までも再三に渡って誅したり、無慈悲且つその極悪非道振りが事細かく描かれているのだが、これらの記事をどこまで信じてよいのかは、取り敢えず記紀を読んだ方々のご想像にお任せしたい。これが最終的に敗者となった倭王の記紀における立位置と思えばそれでよいとは思われるのだが、、、、
ちなみに先に触れた、誅殺された玉田(タマダ、タマタ)宿禰のタマダは、タマデと発音される堺の北に位置する地名の玉出(タマダシ~タマダ)の事と考えられるが、これはタマ=丹波(タンバ)のニワ=倭国=難波にも結び付き、それは大阪市阿倍野の「難波」の地名にも直接結び付く事が解るのである。自身の推論が正しければ、当時の高句麗本国は、高句麗王でもあった倭王珍の切り取った、古代河内湖(大阪湾=茅淳海)沿岸部という事になり、この周辺に仁徳天皇の皇子とされる玉田宿禰の領地があったのも当然で、倭王珍=履中天皇と殺された玉田宿禰は兄弟であった事も解るし、常に高句麗と百済は微妙な関係で共存していた事も分かるのである。

最後に允恭天皇に関しての結論を言えば、この天皇は間違いなく倭王ではないし、それが故に天皇としては絶対に即位もしていない。ここでは玉田宿禰を誅殺し倭王「済」に従った、ただの高句麗王という事に落ち着くのである。もちろんその理由は今まで述べて来た事でお分かり頂けたとは思うが、その一方では記紀編纂者が当時の状況を何も理解せぬまま、高句麗の歴史をそのまま倭国の歴史として記載した為、雄朝津間稚子宿禰は允恭天皇として天皇皇統譜上に載せられたとも考えられるし、倭王済から倭王興に政権が引き継がれるまでに少し空白期間があったから、その辻褄併せに天皇皇統譜上に載せられたとも考えられるのである。どちらにしても特別な意図があったものとは思えないのである。
城跡は京都府綴喜郡宇治田原町岩山にあって、老人ホーム直ぐ背後の低丘陵上に位置している。城史に関しての詳細は不明

城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた岩山城を起点とすればその位置も分かり易いが、国道307号線の「岩山」交差点を目印として、その東側より狭い地元生活道路へ左折進入、そのまま道に任せて進行(北上)すればやがて左手に老人ホームが現れるが、その手前(画像に注目)の藪が城跡への直登取り付き口となる。

     登城ルート1 登城ルート 遺構分布図より1遺構マーキング

この城跡も先にリポート掲載を終えた段橋城同様、京都府遺構分布図にマーキングされた場所を頼りに現地を訪れたものだが、城郭遺構の大半は老人ホーム建設によって消失したものと察せられた。よって往時における縄張りは全て見学者の想像に委ねられる事になるのだが、取り敢えず自身が東峰から茶畑を経て西峰に至るまで踏破探索した結果、山上に遺された当時の遺構とされるものは、東峰における明瞭な土塁土橋とそれに伴う削平地、西峰における広い削平地程度であった事をお知らせしておきたい。もちろん空堀の類を確認する事は出来なかったが、切岸は東峰における土塁土橋の僅かな段差で判別確認可能、結果的にこの東峰も西峰も藪漕ぎしながら相当広い範囲を踏破探索したが、縄張りは掴み切れず、直ぐそれと分かる遺構の確認も叶わなかった。自身における判断では東峰が山上本郭群で、それに付随する郭跡は老人ホームに向いて連続していたものという事になるが、推察の域は決して出ないものと思って頂きたい。

城跡の現状1筒井谷城跡の現状 東峰先端部3東峰東端 土塁土橋4東峰 土塁土橋

  明瞭な土塁土橋5東峰 連続土塁土橋 西峰削平地8西峰

この城跡は元々小規模で、判別し易い遺構は残っていなかったのかも知れないが、見学の対象となるのが土塁土橋程度という事であれば、当然城跡としての評価は厳しいものになるだろう。今回も段橋城同様、その実態や所在地が分からなかった山城ファンの方々の為に、少しでもお役に立てたのであればそれで由!といった処か、、、。
城跡は京都府綴喜郡宇治田原町立川にあって、「正壽院」直ぐ背後の丘陵上に位置している、城史に関しての詳細は不明。

城跡を訪れるには、既にリポート掲載を終えた岩山城を起点とすれば訪れ易いとは思われるが、国道307号線からは登城ルート図を参考にして、目印でもあり直登入山口となる「正壽院」を目指して車を走らせればよい。寺院脇から尾根に向いて僅かな踏み跡があったので、そのまま上れば迷わず辿り着ける筈である。

       登城ルート1登城ルート  遺構分布図より2遺構マーキング

この城跡は、以前この南山城地区の城跡情報を頂戴した方から、「確かな遺構は存在しなかったので、訪れても結果的に無駄足に終わるかも知れない、、、」といった情報は仕入れていたが、京都府遺構分布図にマーキングされた城郭遺構の一つでもあるので、取り敢えず訪問を企ててみる事になった。結果的に自身が踏破探索した限り、その情報通り、空堀はおろか切岸も窺われない、限りなく自然地形に近い城跡と体面する事になったが、訪れたからにはその実態をそのままお知らせするブログ趣旨から、この地を城跡として現況リポートする事に及んだ。
その実態は痩せ尾根上は削平地に近いものではあったが、見ようによっては土塁痕が窺われる、見張り台あるいは狼煙台程度の機能が想像される、これ以上無い安普請の上で築かれた城郭という事になろうか、、、
恐らくこの城跡はこれから先も、ネット上には登城記録の載せられない城跡の一つになると思われるが、今回は一度この城跡の実態を知りたかった城跡ファンの方だけを対象として、その実態を知って頂くだけで由としたい。

             段橋城跡の現状2段橋城跡の現状


尾根先端部4尾根先端削平地 郭跡か5削平地 マウンド地形7マウンド地形




今回は反正天皇に関して前回語り足りなかった部分の補足という形になったが、結果的に反正天皇=倭王済の都、「柴垣宮」は一体どこにあったのか?といった事になれば、本来の百済(クダラ=モズ=ハセ)王の名が語ってくれる様に、百舌鳥(モズ=百済)の地名が残る大阪府堺市という事になろうか。その証拠となる地図は下に載せさせて頂いたが、これは以前から述べて来たように、社会人なら誰もが教科書で教わった事のある朝鮮半島に実在した百済は、実はその本国が近畿にあった事の証明となるもので、興味を持たれた方は是非拝見して頂きたい。それと同時に広域地図に記された百舌鳥周辺にある「大野芝」、「上野芝」、「初芝」の地名にも着目して頂きたいが、「芝」=シバの付いた地名が三箇所も集中している事がお分かり頂けるだろう。まず大野芝を当て字変換すれば倭(オオ)ノ芝、上野芝はウエイの芝で倭(ウエイ)ノ芝、初芝はハジ芝で百済芝、つまりこの芝=シバ~シマ(之国)はクニを指す言葉の一つで、今でも故郷に帰る事を「クニに帰る」といった言葉で表現する様に、かつてシバ~シマは国を表す言葉として用いられていた事が解るのである。シバは少し訛ればシマ(之国、島)と同じ発音で、任侠の世界で自分達のテリトリーを指す言葉、あるいは「シマ争い」で使われる領土争いも同様、芝(シバ)は国や領土、あるいは自分達の故郷までも表現していたのである。以前「お家へ帰る」といった言葉は、倭家(オオウチ~オウチ=お家)へ帰る=都へ帰るが語源、と述べた事があるが、それと同様に、倭人はかつて自身の国を「シバ」、あるいは「シマ」と呼んでいた事がこれで充分理解出来るのである。その証拠として淀川沿いにある「柴島」は、シバシマとしか絶対に読めないのだが、実際には「クニジマ」と読んでいるのである。つまりこの地が百済人にとってのクニ(シマ)で倭国、その中心が百舌鳥(モズ)と呼ばれた百済であったのである。つまり冒頭で触れた柴垣(シバカキ)宮は、そのまま倭国宮を指すものであり、その中心部(首都)は百舌鳥であった事を、百舌鳥や「芝」の付いた地名が見事に証明してくれたのである。

百舌鳥(モズ)は百済が語源 堺市百舌鳥=百済の証拠 倭王済の都推定地倭王済の都推定地 百舌鳥

ここには仁徳天皇稜、履中天皇稜、反正天皇(百舌鳥耳原北陵)稜、更に反正天皇の空陵(モニュメント)とされるニサンザイ古墳などがひしめき合っているが、そこを流れる川の名は大和(ヤマト=邪馬台)川で、この地が当時(五世紀)反正天皇の都で、百舌鳥(モズ)、土師(ハゼ)、北条(ホウジョウ=ホゼイ)、それに百済そのものを指す百済川といった川名が、それを間違いなく証明してくれているのである。自ずと仁徳天皇稜を含めたこれらの空(カラ)陵は、反正天皇時に造営されたものとも推察されるが、残念ながら今以ってそれは証明されてはいないのである。つまり倭の五王の中でも、これだけの陵を造営する事が出来た反正天皇=倭王済は、倭王の中でも突出した存在で、その軍事力もさることながら、偉大な権力と共に、財力までも持ち合わせていたという事になるのである。自ずと連邦国家というべき倭国の宗主国は、高句麗から百済に取って代わった事も察しが付くし、逆に言えば高句麗の力が衰えたという事にもなるのである。自身の考えでは、ここから初めて神道(高句麗)が仏教(百済)に取って代わられたと思えるのである、、、
一般的に日本における百済人は、なぜか朝鮮百済からの帰化人とされているのだが、これは大きな間違いで、以前から何度となく申し上げているように、百済本国は近畿圏内(ここでは大阪)にあり、百済人そのものが高麗人と並んで日本人を形成しているのであって、もっとグローバルに考えれば、倭人(日本人)は以前「桃太郎の鬼退治」事件で登場した、イヌ、キジ、サルを代表とした混成民族で成立したもので、本来はその国に居住する民を区別して呼んだだけで、百済人も高麗人も新羅人も、同じ宗教(神道+仏教)によって結ばれた倭人なのである。朝鮮百済はかつての倭王が一族による分割統治した結果であって、実際には海を隔てて両者は分かれてはいるが、少なくともこの時点までは、倭王が統治支配した同じ百済なのである。
前回触れた様に、この天皇における記紀に残された事跡や業績はなぜか皆無に近いが、これが応神天皇と同様、記紀における倭王済の立位置なのだろう、、、ちなみに参考程度に知っておいて頂きたいが、堺市に直ぐ隣接する松原市には、反正天皇の都である柴垣宮に比定される伝承地があるが、そこから当時の遺跡が発掘されたという情報は未だ聞くに及んでいない。

現状近年における都市開発や、豊臣政権時代に相当手が加えられた(多くの古墳が消滅)と推察されるこの地において、遺された地名だけで履中天皇や反正天皇の首都をピンポイントで特定するのは至難の業に近いが、前回述べたように「済」の前の天皇である、倭王「珍」の諡号の中に含まれる「伊邪」の地名や名前が、大阪湾(茅淳海)沿岸部の都市である泉大津市や泉佐野市に該当し、この周辺に都があった事を間違いなく語ってくれているのである。ここから更に倭王は支配地を北に向いて広げたものと推察されるが、その証拠となる地名が「百舌鳥」であり、それが倭王済における当時の都なのである。

      大阪府高石市に残る倭国の名残となる地名高石に残された倭の名残